How to Breathe

新刊哲学書の比較的詳細な書評

デリダ対ラカン──ヘグルンド再訪

スピノザ主義者デリダ

 私は以前マーティン・ヘグルンドの『ラディカル無神論』について「比較的詳細な書評」を書いたことがある。そのときの論点はヘグルンドによるデリダの再定式化がデリダに反したものではないかという疑義を提示することにあったが、その文章を書いたことのそもそもの動機は、ヘグルンドのデリダ解釈に不満をもったからではない。不満は、むしろこの本の後半部分に出てくるラカン派の欲望概念の解釈にあった。それはあきらかに問題含みのものであったが、結局のところ論点をヘグルンドのラカン解釈にまで拡張させるにはいたらなかった。私のそもそもの問題意識はヘグルンドが「痕跡の構造」と呼ぶものと「生き延びの無条件的な肯定」ないし「生き延びの欲望」の概念のあいだに、正当化不可能なギャップが含まれているのではないかという点にあった。それは要するにデリダを経験論的にパラフレーズすることの問題そのものであった。そのギャップにかんして有意な争点を構成するのがラカン派の欲望概念とおもわれたのだが、ヘグルンドはその点にかんして十分な問題の掘り下げを怠っており、そのことが彼の正当化困難な欲望概念に反映しているのではないかと考えたのだった。今回掘り下げて考えてみたいとおもっているのもこの点にかんしてであり、それはラカンの解釈だけでなく、デリダの解釈についても資するところがあるはずだ。というのもエティエンヌ・バリバールが述べているように、「大哲学は(そしてデリダの哲学は、深さ、独創性、複雑さ、影響力、挑発力のいずれの基準に照らしても、疑いなく大哲学である)、多少の差はあれ「同等の」、あるいはみずからがどのような選択をおこなったのかをよりよく理解することを可能にしてくれる他の哲学との対決および相互作用という観点からのみ、正しく理解され、議論されうる」*1からである。ラカンが哲学者ではないということは、さしあたりここでの問題にはならない。というのもラカンを「まっとうな仕方で形而上学化する」ということは、ここでの私の目的の一部をなしているからである。

 まず、ヘグルンドの主張を要約する箇所を引用することからはじめたい。

生き延びるということは、絶対的に現在的であることが決してないということである。それは、もはやそこにない過去のあとにも残り続けること〔to remain〕、そして、まだ存在していない未来のために過去の記憶を保持すること〔to keep〕である。私は、生のあらゆる契機がこの生き延びを問題としているのだと主張する。というのも生は、デリダが痕跡の構造〔structure of trace〕と呼ぶものに依拠しているからである。痕跡の構造は時間構成から導かれるが、この時間構成は、あらゆるものがそれ自身において現在的であろうとすることを不可能にする。あらゆる今は、それが生じるやいなや過ぎ去っていく。そのため、どんな今も、それとして存在するためには、痕跡として刻み込まれなくてはならない。痕跡が、時間の経過にもかかわらず残り続けることができるということによって特徴づけられる以上、痕跡は過去が残り続けることを可能にするのである。したがって痕跡とは、生が生き延びの運動のなかで死に抵抗するための最小限の条件である。しかし痕跡は未来へと出で立つことによってのみ、生き続けることができる。この未来は過去の痕跡を抹消してしまうかもしれない。このような生き延びのラディカルな有限性は、乗り越えようと欲せられる〈存在の欠如〉などではない。むしろ、生き延びの有限性は、欲せられるものすべてに対する好機チャンスと、恐れられるものすべてに対する脅威とを開くのである。
 ラディカルな無神論の手がかりとなるのは、生き延びの無条件的な肯定〔unconditional affirmation〕として私が分析するものである。この肯定は、あるものは肯定するだろうが他のものはそうしないというような選択の問題ではない。生き延びが無条件的であるのは、皆が例外なくこの肯定に巻き込まれているからである。ひとが望むものがなんであれ、また、ひとが為さんとするものがなんであれ、ひとは生き延びの時間を肯定しなくてはならない。というのも、そもそも生き延びこそが生き続けることを──それゆえ、何かを望んだり、為したりすることを──可能にするからだ。*2

 ヘグルンドによると人間の欲望はプラトン以来の哲学の伝統がこれをそう見なしてきたように「存在の欠如」にもとづくのではなく、「生き延び」ないし「痕跡の構造」にもとづく。そして生あるかぎりでのすべての存在者は無条件に(ということはつまり例外なく)生き延びの肯定に曝されているとされる。しかしこの「無条件的な肯定」の観念ははたして何にもとづいているのか。生き延びの無条件的な肯定と痕跡の構造をいかに区別し、あるいはその連続性を主張できるというのだろうか。おそらく石もまた痕跡的(すなわち有限な時間的)存在者である以上それについて「生き延び」を主張することはできるにちがいないが、私は石について生き延びの「無条件的な肯定」に曝されているとする論証を想像することもできない。すると生ある存在者と生なき痕跡の相違を構成するものは一体なんなのか。この点にかんしてヒントとなる発想の一部を、本書に付録として収められたカンタン・メイヤスーにたいする批判論文があたえてくれている。ヘグルンドによると「生気的なもの〔the animate〕と非生気的なもの〔the inanimate〕の関係を考えるにあたり決定的」なのは、彼が時間の「原− 物質性マテリアリティ」と呼ぶ観念にほかならない[406]。

時間の原−物質性は痕跡の構造に起因している。時間的な瞬間が存在するようになるやいなや存在しなくなるのだとしたら、当の瞬間は何かしらの仕方で存在するためにはなんらかの痕跡に刻み込まれる必要がある。空間性は時間的な契機が起こるにもかかわらず、存続しうるということによって特徴づけられるのだから、痕跡は空間的である。それゆえ各々の瞬間は空間的な刻み込みという支えに左右される。まさに、痕跡の物質的な支えによって過去は未来に向けて把持されうるようになるのだから、それは時間の綜合の条件であるのだ。しかし、痕跡の物質的な支えはそれ自体時間的である。時間化がなければ痕跡は時間を通じて存続することも、過去を未来に関係づけることもできないだろう。したがって痕跡が存続するということは、時間の否定性を免れた何かが存続するということではありえない。そうではなくむしろ痕跡とはつねに、生きつづける機会と抹消される機会の両方を当の痕跡に与える予見しえない未来に向けて残されているのだ。[414]

「予見しえない未来」はしかし生き延びの無条件の肯定を含意するものではないだろう。実のところヘグルンドの論証は、生命と生気を欠いた物質のあいだに「生気的なもの」と「非生気的なもの」という意味での差異を画定させることを狙ったものではない。ヘグルンドは物質がそれ自体で生き延びの構造を有しそれは時間が原‐物質的だからだといっているのである。それゆえ生気論的なものを生気を欠いた物質の観念の外部に追加的なものとして想定する必要はない。彼はこの観点から「哲学的ダーウィニズム」への支持を表明している。「たとえば、ダニエル・デネットダーウィンにおける危険な思想として分析しているのはまさに、生命はいかにして非生命的な物体から進化し、このうえなく発達した志向性や感性はいかにして精神を欠いた反復に起源を持つのかという問いである。哲学的ダーウィニズムは物体を生気づけるのではなく、生命から生気を奪うのだ」[419]。ヘグルンドはこうして、生気を欠いた物質と生命のあいだの連続性を痕跡の構造が含意しているということをあきらかにする。ここまではよいとしよう。しかしそれでは、生あるすべての存在者がそれに曝されているという「生き延びの無条件的な肯定」は何に由来するのだろうか。

それでは、生物と非生物とのあいだの差異において問題となっている差異とはいかなるものだろうか。放射性同位体は数十億年にわたって崩壊しつづけているのだから確かに存えている。しかしそれは生きていない以上、自らの存え=生き延び〔survival〕に構うことはない。存え=生き延びは時間的なものすべてにとっての無条件的な条件であるが、生命を持った存在のみがそれを無条件の生き延びへの配慮とする。なぜなら生命を持った存在だけが、時間の隔たりを超えて自己保存しようと気にかけるからだ。[423-424]

 しかしこれは驚くべき規定ではないだろうか。アニミズムを(もっともなことに)斥けたとおもったら、生命それ自身の規定のうちにアニミズム的規定が帰ってきた。このような規定を「哲学的ダーウィニズム」が必要としないことはいうまでもない。はたしてこの配慮の主体は一体だれなのだろう。一個の個体か、それとも種か。はたまたドーキンスのように、生き延びを配慮する主体は「遺伝子そのもの」とみなすことがもっとも一貫した態度ということになりはしないか? ヘグルンドの問題は、「配慮」という奇妙に生き生きとした隠喩を生命と無機物のあいだに立てざるをえないことである。それはドーキンスのようなダーウィニストが、「利己的」という擬人的な隠喩をなおも用いざるをえないこととは、おなじ水準に属しているとはいえない問題である。「利己的な遺伝子」はいささかも生気論的な規定ではなく、解釈の視点をどこに定めるなら事象を一貫したものとして理解できるかという問題にたいする回答にすぎない。それにたいしてヘグルンドの場合には、生命と無機物のあいだに区別を立てなければ、生き延びの構造としての痕跡一般と倫理的カテゴリーとしての「無条件的なもの」の関係が理解しがたくなってしまうのである。この区別はたんに石が生き延びに配慮しそうにないという経験的事実と対応しているにすぎないのだが、この区別にかんして科学があたえる規定の外部で概念上の構成をあたえなくてはならないという要請は、その思考のもとで隠蔽された形而上学的形式がはたらいているということを示唆する症候である。

 ヘグルンドによると「生き延びの無条件的な肯定」の無条件性は、生あるかぎりでの存在者のだれもがそこに巻き込まれているという(つまり例外なしという意味での)コミットメントを意味している。ところがこの意味での無条件性は、生ある存在者と無機物のあいだの区別を前提としなければ、おそらく規定的内容を持つことはできなかったはずのものである。しかもその意味での「無条件的状態」の開示はいかなる説明的機能も有していないようにおもわれるのだ。というのもそれには例外がないからであり、どんな(生ある)状態とも矛盾することはないだろうから。それは逆説的な経験のエレメントを開示することがないので、自明事の自明性(たとえば不死が不可能であること)以外にはとり立てていうべきことをもたない。さらに本来ならば生き延びの肯定の無条件性は、どんな倫理的スタンスも(不死を望むのであれ短命を望むのであれ)それ自体としては支持することがないようにおもわれる。それはたんに「存在の欠如」というカテゴリーにもとづいた(プラトンの『饗宴』以来の)伝統的欲望概念にたいする「反対案」を提示しようとしたものにすぎないのではないか。しかもそれは、存在の自然な傾向を無条件的なものとして措定した上で、再度肯定するあからさまに形而上学的な身振りによって構成された概念であり、仮に「存在の欠如」が経験論的に不可能であるとしても、脱構築的な「痕跡の構造」から「生き延びの欲望」を派生させることは、正当化することの困難なギャップを含んでいる。それは正当化を欠いたダブルコミットメントである。ところがデリダにとって「無条件的なものの無条件性」は、経験的な例外なしの状態とかかわるというよりむしろ「経験のアポリア」とかかわる無条件的なものの経験にほかならなかった。たとえばデリダは、「私がただ赦しうるものだけを赦すなら、私は何も赦していません」といっている。「もし私が赦すとするなら、赦しえないものがあるときにしか赦すことができないのです。[···]赦しは、それが可能であるとして、不可能なものとしてしか起こりません」*3。赦しについてわれわれがたんに(経験論的に)可能なことのみをあらかじめ想定するとしたら、「赦しの経験」について何も理解することはできないだろう。このようなことは何も極端なことをいっているわけではなく、自明な経験に織り込みずみの逆説を差し示すものにすぎない。

 あるいは私がだれかを愛するときに、愛することの障碍となるような出来事が生じて(たとえば恋人の容姿に傷がついて)、私がただちに愛することをやめられたとしたら、私ははたしてそのひとを愛していたといえるだろうか。事実上は、いっさいの制約を超えた愛のようなものが可能ではないということをだれもが知っているが、しかしながら愛は、いっさいのではないにしてもいくらかの制約を超えたものとして要請されるという事実を、やはりだれもが経験上知っているはずなのである。同様のことが「責任」や「決断」の経験についてもいえる。責任は責任を負うことができないものにかんしてのみ可能な経験であり、何かを決断するということは、それが決定不可能なためらいを構成するかぎりでのみ可能な経験である。この意味で条件付けられた経験の「有限性」はそれ自体のうちに無条件的なものの「不均衡」を孕んでいる。だれかを無条件に愛するということは、そのひとを永遠に、そのひとと私に到来するすべてのことにもかかわらず愛するということではなく、むしろある種の「受苦」を構成するような経験であるだろう。その意味で愛とはいっさいの限界を超えた経験ではなく、いたるところで限界と遭遇してしまうような(そしてそれを乗り超えることを要請された)経験にほかならない。ところでいたるところで限界と逢着することは、かならずしもそれを乗り超えることをアプリオリに要請するものではない。「無条件の肯定」はこのように「要請」という──経験に還元することのできない、しかし経験によって明記された──カテゴリーとともにでなければ、理解することのできないたぐいのものであろう。しかしヘグルンドの「生き延びの欲望」は、この意味での限界に逢着することがなく、限界を試練として耐えることもないので、「アポリアの経験」を構成せず、またいかなる逆説的現象にたいしても特段の説明的機能を有していないようにおもわれるのだ。それゆえその概念は、スピノザめいた形而上学的規定とその隠蔽の昏がりのなかに没してしまっていると考えざるをえないのである。


ラカン的欲望の概念

 ラカンの欲望概念はそれとは対照的に、欲望の「逆説的」現象にそもそもの狙いを定めたものである。ラカンにとって欲望の典型的なはたらきは、レヴィナスが「形而上学的渇望(le désir métaphysique)」と呼ぶものに似て、絶対的に他なるものへと向かう自己意識を超越した無意識の運動である。レヴィナスはいう。「形而上学的な渇望は帰還を熱望することがない。それは、私たちが生まれたわけでもない土地に対する渇望であるからである。いっさいの自然に対して異邦的であるような国、私たちの祖国であったこともなく、移り住むこともけっしてないだろう国に対する渇望なのである。形而上学的渇望は、それに先だつどのような血縁関係にもとづくものでもない。それは充たされることのない渇望である」*4ラカンにとっても欲望の典型的なはたらきは、このように不在(存在の欠如)から出発して根底的に他なるものへと向かっていくことである。ラカンはそれを「他のものへの欲望」と呼んだ。それは「おそらく、人間の欲望すべての中で最も深い欲望に関する定式化、ともかく最も恒常的で、それぞれの人が人生の節目でまず無視することの難しい欲望に関する定式化」であり、「その直接性においても、偏在性においても、誰もが逃れられないもの」であるとラカンは述べている。

他のものへの欲望、こうした言葉は、本能的接合というものを仮定してしまうならば、いったいどんな意味をもちえましょう。発達を、順に出現する内在的な発達的進展としてとらえ、その発達を促進しようとするだけの対象関係理論の中で、この欲望はどんな意味をもつことができるでしょうか。対象関係の対象が典型的な対象、つまりいわば前提的に構成されている対象を問題にしているとすれば、他のものへの欲望などが、いったいどこから来ることができるでしょうか。*5

 他のものへの欲望を認めることは、人間の欲望が自然的過程から離脱していることを意味するだけでなく、所与の経験論的エコノミーからは欲望の原因を演繹することができないということをも意味している。ラカンにとって欲望はあたえられた見かけ上の対象からは説明することができないので、その不可能な対象=原因は別のところに求められなければならない。欲望は、欲望することが不可能な対象にかんしてのみ可能な経験であるとデリダパラフレーズするかたちで述べることもできるだろう。あらかじめ構成された対象は欲望のエコノミーを導入する原因たりえず、当の原因は一箇の要請として、未来から有限なる象徴界を到来させなければならない。到来すべき有限性はみずからの起源を経験論者にたいして秘匿する。この起源の不透明性をデリダは欠如の名前で呼ぶことはなかったが、それが経験にたいして(一度も現前したことがないにもかかわらず)構成的なエレメントであることを認めていたようにおもわれる。不可能な経験はたんに生じないというより「アポリアの経験」として哲学史の内部で生じ、そのことをデリダ脱構築の経験そのものとみなしたのだった。

ひとがそれらに一度も出会わなかったということ、それが一度も出来事も、経験も引き起こさなかったということ、それが一度も、起こりも到来もしていないということ、このことは一つの偶然の事実なのか。それとも逆にそれは、現象学的な本質不可能性、経験と出来事の形相的法則、欲望の条件そのものなのか──あらゆる概念構築が、そう言った方がよければあらゆる「概念」の「創造」が、考慮に入れなければならないような。[…]「脱構築」は、この経験そのもののなかで始まる。脱構築とは、このアポリアの経験であり、まずもってこのアポリアを経験することなのである。*6

 デリダはこの「直接的与件」を一箇の「要請」としている。それは不可能な現前の要請であり、その現前性の不可能性が形而上学脱構築をともに動機づけているのである。ラカンデリダの相違はこの「与件」を「欠如」として語るかどうかという点に認められる。デリダはむしろそれを「純粋贈与」として語ることの方を好むだろう。

 ラカンにとって欲望を導入する不可能なものと、導入されたエコノミーのあいだにはあきらかな「不均衡」が存在するのだが、この不均衡はヘグルンドが記述しているような「想像的弁証法」の運動に還元することができないものである。ヘグルンドはラカンにとって「欠如」が抹消不可能な構成的エレメントであるということを認めてはいるものの、それを「充溢の欠如」という想像的弁証法のなかに解消してしまう。ここではたらいているのは、欲望が、自己意識にたいしてかつて一度は現前したことのある対象にかんしてのみ可能な経験であるという、(ヘグルンドの「生き延びの欲望」概念がまず証明しなくてはならないはずの)経験論的予断にほかならない。

ラカンがしばしば充溢の欠如を失われた対象(たとえば「物自体」)を思い起こさせるかに見える術語で記述しているとしても、重要なのは望まれた充溢はいかなる対象とも同一視されえないということを理解することだ。「物自体」という名目で望まれたものは絶対的な充溢状態であり、いかなる対象もこの絶対的充溢に適合することはない。欲望が存在するのはまさに欲望を満たすことができないからである以上、ラカンにとってこのような充溢の欠如は欲望の原因である。[376]

 望まれた充溢とあたえられた対象のあいだの不一致が欲望のエコノミーを起動するというテーゼは、あきらかにラカンに属するものではない。想像された充溢状態とは、生じうることのすべてをあらかじめ算定された領域から借りてくることしかできない経験論の仮定である。ラカン的欲望の「不均衡」はそれよりもはるかに根底的なもので、無意識の欲望として、その原因は意識にたいして一度もあたえられたことのないはずのものである。しかしこの不均衡は数に入れられなければならない。欠如とは何よりもまずこの不在を数に入れること、すなわち象徴化を要請するものだからである。

 この場合「欠如」とは、実は「直接的与件それ自体の不可能性」の別名にすぎない。直接性は不可能なのであり、しかしその不可能性は想像的にマークされ、象徴界に数え入れられることができる。そしてそのことは主観的な(「概念の創造」の)運動ではなく仮想的な欲望の運動を構成する。その運動が、ラカン的欲望のエコノミーなのである。このエコノミーを「充溢への欲望」という想像的な運動に還元することはできない。ラカン的欲望が文字通り形而上学的なものであることを真に受けなければならない。それはあらかじめ構成され算定された経験という固有の領土を持たないのだ。

 ヘグルンドが特徴づける意味での「充溢への欲望」は、むしろバタイユ的な「侵犯の論理」をおもわせる。バタイユにとって根底的なのは自然界における生命の過剰なエネルギーであり、人間の文化的活動はそれを禁止することによって相対的な自律性を獲得したとされる。しかしその禁止は禁止された当の「所与」をおぞましくすると同時に魅惑的なものとした。それが、バタイユ的な侵犯の論理とその想像的弁証法である。「自然が所与と見えなくなるとすぐさま、自然を拒絶していた精神自体が、以後自然を所与(強制し、自分の独立性を奪うもの)とはもはやみなさなくなる。その精神が所与とみなすのは、自然の対立物である禁止、自然に対する従属を否定するために最初は自ら服従した禁止なのである」。禁止された対象のなかで本質的に充溢であるところの存在の連続性が露呈される。「いやというほど否定されながらも曖昧な価値を保っていたものが、欲望の対象として呼び返される瞬間にはじめて、総体が展開される」*7。その総体性ないし連続性は性ある存在の不連続性に対立するものであり、それは人間にとって、死を賭した侵犯行為においてのみアクセス可能なものである。「生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである」*8バタイユはこのように侵犯行為が死とエロティシズム両面に跨がるものであり、それが存在の不連続性を破壊するものであるということを神話的に表現する。

 ラカン的欲望はこのような「充溢へのノスタルジー」とは根本的に異なっている。まずそれは想像的な水準に本質的な重きをおいていない。さらにラカンが「侵犯」について述べるとき、強調されるのはその道が充溢へいたることはなく「減衰」するものであるという事実である。「享楽へと向かう道はそれ自体減衰し、実践不可能になるきらいがありますが、享楽にとって禁止は、人間を、つまり束の間の踏み固められた満足の轍へと堂々巡りしながら導かれていく人間を、そこから脱出させるためのいわばオフロードカー、キャタピラ車として役立つのです」*9

 ラカン的欲望のエコノミーを一貫したものとして理解するには、それを直接性へのノスタルジーではなく、「直接性への防衛」とする視点を欠かすことができない。想像的な水準では、ひとは──幻想の平面に投じられたルアーとして──どんなことだって欲望することができるだろう。それを充溢のイメージで補填することは、欲望の原因としての欠如を「充溢の欠如」とすることではない。想像的対象の代補は欲望のロジックに属しており、それはこの対象が(その生き生きとしたイメージにおいて)享楽をあたえてくれるからではなく、享楽の直接性にたいするスクリーンとしてはたらくからである。「美は/怖るべきものの始めにほかならぬ*10」というだけでなく、その「妨げ」にもなるともいうべきなのだ。ラカンは『精神分析の四基本概念』のなかでつぎのように述べている。「享楽することを欲さないことがありうるということは、誰でも経験から知っています。ということはつまりみなさんご存じのように、享楽それ自体が近づいてくるということは、何らかの畏るべき約束を含んでいるために、誰でもそれを前にしてはたじろぐものだということです」。さらにラカンは、「欲望することを欲さないことと、欲望すること、この二つは同じことなのです」とも述べている*11。それは、欲望が享楽を求めるというより享楽にたいする防衛として構成されているからである。この意味での享楽を欲望の原因とするなら、欲望そのものはこの原因にたいする距離として定義できるだろう。欲望のトポロジー的空間を距離として構成するものは、「接近」の運動だけではなく、「離反」の運動でもあるということがここで決定的に重要である。

欲望するということの中には、欲望することと欲望することを欲さないこととを、同じものにしてしまうようなある種の防衛の契機が含まれています。欲望することを欲さないということ、それは欲望しないことを欲するということです。こうして、かの哲学者たちが奉じた原理が登場します。[…]これらの哲学者たちとは、ストア派とエピキュロス派です。欲望することを欲さないということが、それ自体、裏側というものを持っていないあのメビウスの輪のようなものだということを主体は知っているのです。すなわち、主体は、この輪のある面を歩いてゆけば、いずれは、その面の裏張りをしていると想定されるような、もう一つの面に出てしまうことを知っているのです。*12

 防衛として構成される欲望はこうして本来的に「禁欲的」な傾向を有しているのだが、欲望のエコノミーからは、満足は意図しないところから副作用のようにしてあたえられる。それが享楽にあたえられるもうひとつの弁証法的規定──欲動の満足としての「剰余享楽」である。欲望と欲動の道はこのように最小限のギャップを通して区別されるのだが、この区別にかんしても、ヘグルンドは不可解なことに欲動の満足を充溢のイメージのもとに回収しようとしている。ヘグルンドによると、「この図式によって明らかになるのは、充溢が欠如していることは問い付されることはなく、欲望と欲動両方の根幹に位置しているということである。欲動の対象は明らかに欠如の対象として措定されているが、主体はこの欠如を、充溢が受肉したものだとみなすことによってのみ、当の欠如から満足を引き出しうるのだ」[378]。しかしラカン的欲望が、欠如を問いにふすことそのものでないとしたら、一体なんだというのだろうか。欲望の「無限に有限な」運動はそれ自体がトラウマ的なものであって、もしそこで欲動が満足をみいだすことができるとしたら、主体が充溢を想像するからではなく、欲望の悪無限がめぐる空虚をひとつの穴で満たすからである。たとえばドン・ジョヴァンニの享楽を追求する侵犯の運動が、いつしか女を数えることの剰余享楽となっているように。


デリダ的メシアニズムは何をためらう?

 われわれはラカンデリダの用語で理解できるような地点に辿り着いただけでなく、ラカン派の欲望概念から翻ってデリダ的(あるいはヘグルンド的)無条件性を批判することのできる地点まで辿り着いたようにおもわれる。そこで問題とすべきこと(あるいは解きほぐすべきこと)は、無条件的なものの二重に絡みあった含意である。たとえば「歓待」が無条件なものであるといわれるとき、事実的なレベルに染みついた要請のレベル──その「必然的な混淆」──が指摘できる。われわれの条件づけられた経験的歓待において、だれかを迎え入れるということは、だれか他のひとを迎え入れないということを必然的にともなっており、そのかぎりで条件づけられた歓待は、無条件的に他の歓待へと開かれているといえる。歓待はそれと同時に、われわれが好むと好まざるとにかかわらず、それ自体が「無条件にわれわれに訪れるもの」を含意している。排除された他者は、帰ってくるかもしれない──これは事実的なレベルでの話である。ところがこの他者の再−来訪は、起源的にまた無条件的にすべての歓待にとり憑くものであるとしたら、無条件の歓待とはこの歓待することの要請をともなった歓待それ自体の訪れでもあろう。この二つの水準はたがいに絡みあっており、経験的に区別することができないけれども、ヘグルンドは経験的に、一方を他方に基づかせようとしているようにおもわれる。しかしそれは不可能ではないだろうか。つまり歓待の「要請」を根拠づけるようないかなる「構造」(それが「痕跡の構造」という意味であっても)も、経験も、みいだすことができないがゆえにそれは無条件的なのではないだろうか。それ自体が起源的で亡霊的な来訪としての無条件の歓待を、歓待のいかなる事実のなかにももとづかせることはできない。経験的に無制限の歓待が可能ではないという事実からは、他者を歓待せよという要請を派生させることはできない。その要請の事実性はいかなる事実にもとづくものでもない。その要請が亡霊的であるということ、いい換えると「現在」のエコノミーからすると不可能であるということ、しかしそれがほとんどつねに(現在の現前性以外のところでは)可能であるということ、それらを矛盾なく理解するには、この不可能性が哲学的伝統の内部で出現することの意味を理解しなくてはならない。しかしそれは、不可能事のひとつの意味にすぎないだろう。それは形而上学的伝統の内部にしかあらわれることのできない「外」である。この要請は経験的事実の集合のなかにも超越論的構造(形式)のなかにも還元することのできないものだが、しかしそれは、還元が露呈するアポリアの経験、哲学の贈与である。

 こうして無条件的なものの要請は経験可能であるとしても、可能なもののエコノミーを超えているのであり、それゆえこの要請のレベルを事実的経験のなかに基礎づけることはできないのである。そうであるがゆえに、歓待の要請は亡霊的なのものとされ、二つの水準の「あいだに」まさに脱−接合のようなものがあるのだ。しかしヘグルンドは、歓待の無条件性をたんにつぎの一面的なレベルで解釈しているようにおもわれる。──われわれは事実上無限ないし絶対の歓待が不可能であることを知っている。それゆえ経験的な歓待は、必然的に制限されたものとならざるをえない。歓待は、この意味で「無限に有限な」経験である。しかし、このような否定的無限のロジックによっては説明できないのは、無条件的なものの要請それ自体の事実性である。デリダはあるひとを歓待するということは、他のひとを歓待しないこと、排除することを含意するとたしかにいっている。しかしながら歓待が無条件なものであるというとき、それはこの経験に憑依するもの、または亡霊的経験をもおそらく差し示しており、この経験の「脱−接合」は、「時間の原−物質性」や「痕跡の構造」とヘグルンドが呼ぶものからは決して演繹できないたぐいのものである。時間の到来はつねに空間化するものであり(時間の原−物質性)、現在とは「現在の他者」の到来である(痕跡の構造)、こう述べるだけでは決して到来しないものがあるのではないだろうか。痕跡の構造は真に「綜合の原理」たりえているとはいえない。何が他者の──なんであれ「自己」のようなものへの──到来を可能にするのか。その「自己」がまさに不可能であるとして? 現在の不可能な現前性それ自体が、というだけでなく、自己の不可能な固有性それ自体が、といわなければならない。他者の異他触発的な自己への到来は、時間の原−物質性からは演繹できない。それゆえに、ヘグルンドはそれを生ある存在一般の「配慮」として、追加的に、あたかも痕跡の構造の外部から到来する亡霊のように措定してしまったのである。この亡霊は一箇の経験であり続けなければならない。そうでなければそれは、一箇の形而上学的規定のなかに没してしまうにちがいない。亡霊はいつも構造の外部からやってくる。それが不可能事の可能性ないしアポリアの経験と呼ばれるものであり、哲学はそれを形式以外のものとして経験したためしはなかった。形式の外部からやってくるものを新しい名前で呼びたいという誘惑は、古くからあるアニミズムの誘惑である。

 ひとは生き延びに配慮するために、排除された他者に、望まれない暴力として帰ってくるかもしれないから、配慮しなくてはならないのだろうか。存在の可傷性は防衛のエコノミーを構築するだろうが、それが自己への配慮を含意するだけではなく、他者への配慮を帰結させなければならないのはなぜなのか。その理由は「どこにもない」ようにおもわれる。あるいはその配慮が無条件のものであるということの意味は、それが現前するということ以外の理由をもたないようにおもわれる。他者の訪れは、あなたが望むと望まざるとにかかわらずやってくる。しかしこの他者とは、一体だれなのだろう。要請のカテゴリーを、亡霊的なものではなく、生あるもの一般の配慮へと還元することははたして妥当なのか。われわれはこの還元のなかに、反対にまったくの「根拠のなさ」をみるべきではないか? そしてこの根拠のなさに忠実であるということにこそ、デリダの教えともいうべきものをみとめるべきではないのか。それはアニミズム存在論形而上学自然主義によって代補されてはならない、まったくの根拠のなさ、すなわち到来するものおよび自由の無底でなければならない。それは、他者の到来ではあるが経験的他者の到来ではなく、「亡霊的他者」の到来であり、時間の原−物質性そのものの脱−接合である。つまり時間の原−物質性からは、いかにしてもその到来が派生することはないであろう、そのような「形式の他者」の到来である。デリダはこの形式の他者(亡霊)を、「可能な経験のエコノミー」のエレメントとすることを拒んだのだった。

 ところでデリダ自身はこの「無底」にたいしていかなる表現をあたえているだろうか。私は『マルクスの亡霊たち』から、以下の一節に(文脈を考慮することなく)詳細な注釈を加えてみたいとおもう。

贈与から発して正義を考えることの力と必然性、すなわち法、計算、取り引きを超えて正義を考えることの力と必然性がひとたび認められたとき、[そう、このことをまず認める必要がある。そこから、私は引用をはじめるのだが、おそらくどこからはじめてもこの「起源」は証明できない。すなわち、私が引用をはじめるのは経験にたいして明証になりえない贈与を認めることをデリダが促している箇所からである。贈与の起源は経験にたいして明証になりえない、それゆえに、ここからはじめることの必然性が認められる。]したがって、他者に対する贈与を自分が所有しておらず、よって逆説的にも、他者に帰属することしかありえぬものの贈与として考える(まさしく強制力フォルスなき、もしかすると必然性なき、そして法則なき)必然性が認められるとき、[必然性なきものの必然性であって、脱−接合の、根拠なきものの必然性である。ここでは、正義と他者の関係が問われているだけでなく、われわれにとってデリダの思考がこのような贈与として、他者の暴力としてあたえられるという事実にもいくらか留意しておく必要があるだろう。]正義のこうした運動の一切を現前性のシーニュのもとに書き込むことに危険リスクはないのだろうか。[現前性のシーニュのもとに書き込むということは、それを形而上学のエコノミーのなかに書き込むということ、それを無限の贈与ではなく記号の交換の論理へと還元してしまうことである。][・・・]他者との関係としての正義は、むしろ逆に、法の彼方ましてや法律主義の彼方に、道徳の彼方ましてや道徳主義の彼方に、次のようなものを前提とする[強調引用者]ものではないだろうか。すなわち、脱節あるいは錯時性の還元不可能な過剰、何らかの Un-fuge〔非節理〕、存在と時間そのものにおける«out of joint»な解体、つまり計算可能な保証が存在しないような悪や所有の剥奪や不正(adikia)の危険をおかす一方で、他なるものとしての他者にたいして正義をなし、正義を回復する[強調デリダ]ことのできる唯一のものとしての脱節、これを前提としていないだろうか。行動〔action〕のなかに尽きないないような行為faire〕を、そして単に復権する〔restituer〕ことに帰着するのではない回復rendre〕を前提としてはいないだろうか。*13

 引用を一端中断する。デリダが二つのことを「前提」していることに注意しておこう。それは一方では起源の絶対的先行性であり、それが絶対的であるのは、それが有限な規定を逃れ去るからであり、形而上学的記述のエコノミーと道徳および法的規則性の包摂を超えているからである。またこの先行性としての贈与については、ヘグルンドの「痕跡の論理構造」が説明できていない、というかその「必然性」を認めることができていない当のものであるようにおもわれる。他方でデリダが前提とするのは時間のアウト・オブ・ジョイントな解体であり、しかもそれは正義の「復権要求」をともなった解散、脱−接合のロジックである。この箇所については解釈が必要なところだろう。デリダはたしかにある種の時間の綜合のロジックを述べているようにみえるのだが、彼はそれを現前性のエコノミーに帰着させないように周到な注意を払っている。われわれにとって問題は、これがヘグルンドの記述する時間の綜合原理としての痕跡の構造、あるいは時間の空間化にひとしいかということである。デリダ自身がこれらを等置しているようにみえることがしばしばあるとしても、これまでに論じたことが正しいとすれば、ヘグルンドが定式化している意味での時間の空間化ないし時間の原−物質性は、道徳や法律の可能性をいわば超過することによって導入するもの──すなわち「要請」としての無条件的なもの──を説明できておらず、別の「原理」を、すなわち生あるものの「配慮」としての生き延びの無条件な肯定を必要とするようにおもわれたのだった。しかしあきらかに、ここには「超過」があるということ、その超過をデリダはあくまで前提とし、しかもそれを復権するがままにならないような要求(すなわち可能事のエコノミーを導入する不可能性)にとどめようとしている。こうしたことのすべては、「他者との関係としての正義」を理解するために前提とされているのであり、同時に他者との関係としての正義(それ自体としては具体的な経験であろう)の方が、いわばこうした「メシア的時間の構造」を前提としているのである。直後から引用を続ける。

ここで賭けられているものを極端に定式化するために、あまりにもてっとり早く言っていしまうならば、ここ、すなわち[・・・]この Un-fug〔非節理〕の解釈において賭けられているのは、正義の可能性に対する脱構築の関係、他者の特異性に(負債も義務もないとはいえ)返されるべきもの、他者の絶対的な先行性=譲渡性〔précédence〕および到来性〔prévenance〕に、すなわち前−=先−〔pré-〕という接頭辞があらわす異質性に回復されるべきものに対する脱構築の関係であるだろう。

 ここで経験的なものといわば「準−超越論的なもの」が交差していることに注意しなくてはならない。他者の先行性は一方では経験的なものとして理解できるが、それが絶対的なものであるのは、それを経験的に記述する術がないからである。他者の先行性、その贈与、また一般に他者の特異な他者性を経験論的記述に還元することはできないであり、それこそが哲学の「原因」を成すところの「鏡の裏箔*14」と呼ばれるところのものである。哲学はこの他者にたいして、みずからの反省のうちで消えていくもの──それを無限や絶対の名前で呼ぶことが正当なのは、もちろん形而上学の閉域の内部においてのことだが、その「外」は、まさに到来すべきものとしてしか差し示すことができない──その消去の痕跡について、哲学は何かを負っているのだが、脱構築にとってそれが負債や義務でないのは、まさにそれが到来すべきものとかかわっているからである。

この接頭辞[pré-]は、私に先立って来るもの、いかなる現在にも先立ち、したがって過去のいかなる現在にも先立って来るものをたしかに意味してはいるが、同様に、まさにそれゆえに、未来からもしくは未来として来るものも意味している。すなわち、出来事の到来そのものとしてやって来るものも、である。必然的な脱節、すなわち正義の脱−全体化する条件、それはまさしくここでは現在の脱節である──またそれゆえに[強調引用者]現在の、現在の現前性の条件そのものである。ここにこそつねに、脱構築が、贈与および破壊不可能な正義の思想として、みずからの到来を告げるであろう。*15

 私はこの「それゆえに」が十分な根拠を告げていないことを強調したい。「現在の脱節」が「現在の現前性の条件」であると述べることは、それを必要にして十分な条件とすることではないだろう。それは「綜合の原理」ではないのだ。いかにして時間の離散が時間の綜合を可能にするのだろうか? 時間化が必然的に空間化である(痕跡の構造)と述べることは、時間の現前性を可能にすることの根拠をふくんでいない。それはただ、時間の(現前的なものの)贈与──その無底──に達するだけである。そしてその根拠のなさは、同時に人間的自由の根拠でもあるだろう。そう述べることが(正当化)可能なのは、この無底が、自由をその不確定性において根拠づけるからではなく、哲学そのものの方向確定なき自由をなすかぎりでのことである。つまりそこに脱構築が哲学的伝統の尖端に負債もなく立っているといわれることの意味がある。私は、デリダが述べていることを彼の表現以上に明確にしたいというより、哲学の伝統にたいして寛容なものとしたいとおもっている。彼の哲学は相対主義ではないし、哲学の自己解任でもなかった。それは哲学がつねにそうであったところのもの、自己の理念的同一性(精神)ではなく、新しいものにアプリオリな形式として触れ、それを自己への接触と勘ちがいするところの、あの運動になおも属している。ちがいは、デリダがそれを明確に他者への不可能な接触と考えている点にある。その構造を記述することにおいて、すなわち哲学の歴史性を理解することによって、デリダ的思考は自由の経験にいたり、真の出来事と他者の他者性に原因をあたえられたものとして、到来すべきものを思考しようとし、そのことによって(意に反してかどうかはともかく)他者の他者性、その先行性に見事な形式をあたえているように私にはおもわれるのである。正義とはデリダ脱構築の厳格な決定の名前であり、そこにわれわれはデリダ自身の署名をみるべきである。その意味するところは、脱構築が解体する地平においてひとはいかなる構造の名前においてもこの正義を根拠づけることはできないということである。しかしその根拠のなさは相対主義を正当化することはないし、また、たんなる生き延びへの配慮や欲望を(もっぱらそれだけを)肯定することもないだろう。それは未来および他者との関係性そのものであり、また哲学のみずからに反した約束である。それは経験的なものであると同時に、準−超越論的なもの、論理構造ではなく哲学の歴史性の構造そのものである。というのもそれは、みずからを締め出す(形而上学の閉域)ことによって外部を、未来を、新しいエポックとアクチュアルなものとしての哲学の同時代性を、自由にならない自由として、告げるものだからである。デリダにとってそれは痕跡であり、また痕跡であるというだけでなく眼前の他者であり、この他者(および痕跡の他者性)と正義(すなわち未来の未到性)の関係を理解しようとすることは、デリダ脱構築の自由な決定であった。

その正義とは、たしかに一切の脱構築脱構築不可能な条件ではあるが、その条件自体は脱構築過程にあり、その過程にあり続け、──これこそが厳命なのだが──Un-Fug〔非節理〕の脱節のなかにあり続けなければならない。さもないとそれは、義務達成の潔白意識のなかに憩ってしまい、未来、約束、あるいは呼びかけ、また欲望(すなわちその「固有の」可能性)、あの(同定可能な内容もメシアもいない)砂漠的なメシアニズム、またあの無底の砂漠、こうしたもののチャンスを失ってしまうのである。[・・・]〈メシア的なもの〉とは、すなわち、他者の到来、正義としての到来者の絶対的で先取り不可能な特異性である。われわれが信ずるに、この〈メシア的なもの〉は、マルクスの遺産の、そしておそらくは相続することの、すなわち相続経験一般の抹消不可能な──つまり抹消することもできずまたしてもならない刻印マークであり続ける。さもないと、出来事の出来事性、他者の特異性と他者性は、還元されてしまうことになるだろう。*16

 まさにここに、デリダラカンをわかつ分割線がある。デリダにとって他者の他者性はあたかも期待すべきことであり、出来事の出来事性は到来すべきことであるかのようである。それはなぜだろうか? そのことについては、ヘグルンドが分節化した「無条件的なもの」の論理によって答えることができるだろう。他者の他者性、出来事の出来事性は、好むと好まざるとにかかわらず到来するものであり、それ自体が望ましいものであるかどうかにかかわらず、それはすべての望ましさの無条件的な条件をなすものだからである、と。ここで「メシアニズム」として述べられていることは、だから(主体の自由の関知しない)「客観的過程」のようなものということになろう。(実際、デリダはそこに彼自身の無底の「ためらい」を位置づけているようにおもわれる。)

 デリダラカンの決定的なちがいは、デリダが「メシア的なもの」と呼ぶものをラカンなら「トラウマ」と呼ぶにちがいないということである。他者の他者性はそれ自身の特異性を隠蔽するかたちでしか到来することができない。それは、その他者性は、みずからを形式(象徴界)とすることを課す「外傷」だからである。デリダが「概念の創造」にみとめた契機はラカンにとって、それ自体が客観的なものというより無意識の過程に属するものであって、哲学者の主観性がそれを自由にできるようなものではないのである。この点、デリダラカンの近さは一目瞭然である。ラカン的欲望のロジックは、いかなる意味でも出来事のようなものが可能ではないということを意味せず、それは他者の他者性と、出来事のようなものと、未聞のものといつもかかわっているのであり、そのため、みずからを防衛として構築せざるをえない主体の非情な論理である。出来事がそのつど可能事を導入しながら、「自己」をシニフィアンへと、すなわち無意識の主体へと解消するだろう。未聞のものはそのさいトラウマとして、未来から象徴界を呼び醒ます。他者の他者性は象徴的なもの(すなわち既成のもの)が出来事として、未来から到来することを強いるのであって、また象徴的なものの贈与それ自体は、他者の剥き出しの他者性(すなわち現実界)と区別しがたい二重のトラウマを構成するのである。ラカンにとって自然と文化はともにトラウマ的なものなのだ。というのもトラウマは定義からして境界的なものであり、いわばみずからを心(形式)となす傷(他者)であり、みずからを自己となす傷、傷のようなものとして到来する他者(の心)だからである。


留保なき欲望の留保

 デリダラカンのロジックは本質的に近しいものであるが、デリダはこの「強いられたエコノミー」をあたかも哲学者の主観性が自由にすることができ、従ってためらいを構成することのできる何ものかとして考察しているようにもおもわれる。デリダは出来事を既成のエコノミーに従わせることを「ためらう」。しかし、どうしてそんなことが可能なのだろう? ラカンからすると、無意識もまたためらうのである。それは欲望が〈他者〉の欲望であり、主体はその一次性に、直接性(享楽)に、耐え抜くことができないからである。従って欲望はつねにすでに二重化されている。それはまず、超過(侵犯)を命じる〈法〉とおなじものである。しかしラカンがもっともバタイユに接近する箇所においてすら、そのちがいは歴然としていることを再度注意しておきたい。ラカンパウロを逐語的につぎのようにパラフレーズする。

〈法〉は〈もの〉でしょうか。決してそうではありません。しかし〈法〉によらなければ、私は〈もの〉を知らなかったでしょう。たとえば、〈法〉が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、〈もの〉は機会あるごとに命令によってあらゆる種類のむさぼりを私の内にひきおこします。〈法〉がなければ〈もの〉は死んでいるのです。私はかつて〈法〉と関わりなく生きていました。しかし命令が登場したとき、〈もの〉は燃え上がり、生き返って、私は死にました。そして、命をもたらすはずの命令が、死に導くものであることが解りました。〈もの〉は命令によって機会を得て、私を欺き、そして命令によって死の欲望を作り出したのです。*17

〈もの〉すなわち das Ding はのちに「享楽」として術語化されることになるものであるが、ここで述べられていることは、〈法〉が〈もの〉を措定することによって分離するという弁証法的運動である。〈法〉は享楽を命じる、と同時に享楽(他者の一次性)を妨げる。〈法〉は〈他者〉との接触を、他者が「私」とおなじものであるという事実──シニフィアンの連鎖──を打ち立てることによって妨げ、同時に可能にするもののである。ラカン的にいうなら、「すべての他者はまったき〈他者〉である」という事実は、根底的に触知不可能な〈現実的なもの〉であり、しかし同時にその事実が、私自身の鏡像としての他者との接触を可能にする──象徴界を到来させるのである。しかしここであたかも時間の順序であるかのように述べていること、すなわち、まずさきに現実界があって、それを原因として象徴界が引き起こされると考えるなら、いささか事態を神話的に捉えすぎているきらいがある。さきに述べたように、言葉を話す存在にとっては象徴的なものそれ自体がトラウマを構成するという事実が、〈象徴界〉と〈現実界〉のカテゴリー的区別を促すのであって、その逆ではない。

 すでに述べたように、享楽への指向としての欲望は厳密にトポロジー的距離、すなわち接近であると同時に離反であるところの運動として理解できる。〈法〉は「むさぼり」を私に命じる。しかもそれは、〈もの〉(享楽)と私のあいだに距離を穿つことによってそうするのである。

さらに言うなら、「das Ding」とはパロールの法の、最も原初的な相関物であり、それはつまり「最初に「das Ding」があった」という意味であり、「das Ding」とは主体が名づけ分節化し始めたものから分離されえた最初のものなのです。そして「欲してはならない」と言われているのは、私が欲望するものすべてにではなく、私の隣人の〈もの〉である限りでの事物へと向けてなのです。
 パロールそのものによって打ち立てられるものとしての〈もの〉とのこの距離を維持する限りにおいて、この命令はその意義を持つのです。*18

 これが、欲望が享楽についてためらうことがあるのはなぜなのかを説明してくれるラカン的パースペクティヴである。バタイユとはちがって、ラカンは「侵犯による享楽」を微塵も過大評価していない。侵犯は享楽へいたる道というより、その行程の途上で、享楽への障碍としての道徳法則の反発にいたるところで出会うものだからである。それゆえ享楽の道は「それ自体減衰し、実践不可能になる」きらいがあるとされるのである。

 こうして、ヘグルンドがラカン的欲望を「充溢への欲望」と定義することがまったくの誤りであることはあきらかとなったはずだ。ラカンは『精神分析の四基本概念』において、「享楽のためらい」についてだけでなく「欲望のためらい」についても述べていた。その箇所をもう一度引用しておこう。

享楽することを欲さないことがありうるということは、誰でも経験から知っています。ということはつまりみなさんご存じのように、享楽それ自体が近づいてくるということは、何らかの畏るべき約束を含んでいるために、誰でもそれを前にしてはたじろぐものだということです。[・・・]
 では、欲望することを欲さないというのはどういうことかお解りですか。あらゆる分析経験──それはここにいらっしゃるみなさんそれぞれにとって、経験の根っこに横たわっているものの別名にすぎないのですが──が物語っているように、欲望することを欲さないことと、欲望すること、この二つは同じことなのです。

 ここでひとつの仮説を立ててみたいのだが、このパッセージの意味していることはつまるところつぎのことではないか。悪名高い享楽の一次性、カントの「物自体」に準えられるその境位は、少なくとも一面においては〈他者〉の欲望それ自体のことではないだろうか。そのように考えると、主体が享楽について畏怖するのとおなじように、「欲望することを欲さないこと」がありうるのはなぜなのかを理解することができるようになるだろう。欲望とは、ときに「欲望することを欲さないこと」を欲することである。主体はまず、自身の欲望を〈他者〉の欲望の模倣として構成した。それは〈他者〉の無定形な──通常は幼児にとって理解しがたい、意味を欠いた母親の現前と不在の運動としての──欲望にたいする防衛として、自分の欲望を構成した。それは〈他者〉の欲望を脱トラウマ化する反復であるから、そうして構成された主体の欲望が「欲望することを欲さないこと」であるのは大いにありうることなのである。

 さてこのように考えると、ラカンの有名な格律「汝の欲望について譲歩するな」を、主観的格律ではなく客観的格律として解釈するための道筋ができたようにおもわれる。通常の解釈によると、これは主体が採用すべきカント的格律(すなわちすべての主体に妥当する)と考えられている。しかしそれはおそらくまちがっている。このセミネールの表題「精神分析の倫理」とは、分析主体(患者)の倫理というよりまずもって分析家の倫理であり、従ってこれは何より分析家が採用すべき格律なのではなかったか? しかしこの格律は、通常なら主体がそれに従うことができず、譲歩するほかないような無条件的格律である。これが、分析家の欲望がラカンによって「純粋欲望」と名差しされる理由なのだ。分析家は大文字の〈他者〉の留保なき欲望の位置を(見かけだけでも)占めなければならない。それが分析主体の欲望を二重化し、すなわち「ためらい」−「抵抗」として構成し、欲動の対象を分離することの条件となるのだ。

 ラカンにとって〈他者〉の欲望の範例はアンティゴネーの欲望であり、彼はこれを「母の欲望」と同一視する。というのも「母の欲望は、構造のすべてを創始した欲望」にほかならないからである*19。この象徴界以前の起源的欲望にたいし、主体はためらう(と想定される)。そして主体は、みずからの欲望をこの〈他者〉の欲望として到来させることになる。この「として」は同一性を意味するのではなく、むしろギャップを構成する問いの空間を意味している。シニフィアンの痕跡は、それ自体にたいするギャップを含意しつつそれに問いかける──「汝何を欲望するか?」──のである。

 ラカンが彼の有名な「格律」をどのように示したかということをここで確認しておこう。

実験として、私は皆さんに次のような命題を提出します。これらの命題をパラドックスの形で定式化してみましょう。分析家である皆さんの耳にはそれはどう響くでしょうか。
 罪があると言いうる唯一のことは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したことだ、という命題を私は提出します。
 この命題は、あれやこれやの倫理では受け入れられないにせよ、分析経験で我々が確認することを十分に表現しています。聴罪司祭に受け入れられるかどうかはともかくとして、結局、自分に罪があると実際に感じるのは、つねに根源的には自身の欲望に関して譲歩したからです。*20

 ラカンによると「英雄の定義、[それは]裏切られてもひるまない者」であり、「このような感じ方は万人の手に届くものでは決してなく、これこそ普通の人と英雄の相違」である*21。だから「汝の欲望にかんして譲歩するな」ということは、やはりカント的な意味での主観的格律ではなく、無意識の仮想的格律であるといわなければならない。われわれはギリシア悲劇の英雄とはちがって欲望にかんして「無条件のためらい」に曝されている。このためらいが〈他者〉の欲望を主体の欲望として定立し、同時に問いの空間をギャップとして切り拓く。この意味で人間の欲望は純粋に仮想的なものである。しかし欲望のためらいの無条件性は欲望それ自身のためらいのなさ、留保なき絶対性──死にいたる欲望としての〈他者〉の欲望──に裏打ちされている。ここから欲望の第二のパラドックス──第一のパラドックスは「欲望することを欲さないことを欲する」である──が出てくる。つまるところ人間の欲望とは、死にいたる欲望そのものだということである。

 欠如としての享楽の自体性は、欲望の悪無限を動機づけるとともに制限をあたえる。それは、無限の終わりのなさが通常われわれが有限性として理解しているものの条件であることを肯定するロジックだ。すなわち、有限性は有限な解決(自己との一致)を妨げられたときにのみ、それ自身の尻尾を捕まえることができるということである。ラカン派の解釈では、「欠如」とは有限性それ自身を支える亀裂であり、デリダにとってその尻尾はおそらく、「他者のまったき他者性」という観念に求められることになるかもしれない。それは哲学を動機づける「原因」ではあるが、思弁的反省の鏡のなかには決して映ることのないものである。

*1:エティエンヌ・バリバール「終末論対目的論」『デリダ──政治的なものの時代へ』所収、藤本一勇/澤里岳史訳、岩波書店、2012年、55頁。

*2:マーティン・ヘグルンド『ラディカル無神論』吉松覚/島田貴史/松田智裕訳、法政大学出版局、2017年、4頁。以下本書からの引用は本文に頁数のみを表記。

*3:ジャック・デリダ「出来事を語ることのある種の不可能な可能性」『終わりなきデリダ』所収、西山雄二/亀井大輔訳、法政大学出版局、2016年、22頁

*4:エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限(上)』熊野純彦訳、岩波文庫、2005年、39-40頁。

*5:ジャック・ラカン『対象関係(下)』小出浩之/鈴木國文/菅原誠一訳、岩波書店、2006年、141-142頁。

*6:ジャック・デリダ『触覚、』松葉祥一/榊原達哉/加國尚志訳、青土社、2006年、240頁。

*7:ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史』湯浅博雄/中地義和訳、哲学書房、1987年、106頁

*8:バタイユ『エロティシズム』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2004年、24頁

*9:ラカン精神分析の倫理(下)』18頁。

*10:ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノ悲歌』手塚富雄訳、岩波文庫、2010年、7頁。

*11:精神分析の四基本概念』[小出浩之/新宮一成/鈴木國文/小川豊昭訳、岩波書店、2000年、317頁。

*12:同前、317-318頁。

*13:ジャック・デリダマルクスの亡霊たち』増田一夫訳、2007年、72-73頁。

*14:「(哲学的概念──すなわち概念そのもの──から見た)徹底的な他性へ向けた不法侵入エフクシオン 〔こじ開け〕は、哲学では、つねにア・ポステリオリと経験主義という形式をとる。散種が書かれるのはこの鏡の裏──裏箔──にであって、自己の転倒した幽霊のうえにではない」。デリダ『散種』藤本一勇/立花史/郷原佳以訳、法政大学出版局、2013年、47頁。

*15:マルクスの亡霊たち』73頁。

*16:同前、73-74頁。

*17:ラカン精神分析の倫理(上)』125頁。

*18:同前、124-125頁。

*19:ラカン精神分析の倫理(下)』176-177頁

*20:同前、231頁。

*21:同前、234頁。