How to Breathe

新刊哲学書の比較的詳細な書評

デリダ対ラカン──ヘグルンド再訪

スピノザ主義者デリダ

 私は以前マーティン・ヘグルンドの『ラディカル無神論』について「比較的詳細な書評」を書いたことがある。そのときの論点はヘグルンドによるデリダの再定式化がデリダに反したものではないかという疑義を提示することにあったが、その文章を書いたことのそもそもの動機は、ヘグルンドのデリダ解釈に不満をもったからではない。不満は、むしろこの本の後半部分に出てくるラカン派の欲望概念の解釈にあった。それはあきらかに問題含みのものであったが、結局のところ論点をヘグルンドのラカン解釈にまで拡張させるにはいたらなかった。私のそもそもの問題意識はヘグルンドが「痕跡の構造」と呼ぶものと「生き延びの無条件的な肯定」ないし「生き延びの欲望」の概念のあいだに、正当化不可能なギャップが含まれているのではないかという点にあった。それは要するにデリダを経験論的にパラフレーズすることの問題そのものであった。そのギャップにかんして有意な争点を構成するのがラカン派の欲望概念とおもわれたのだが、ヘグルンドはその点にかんして十分な問題の掘り下げを怠っており、そのことが彼の正当化困難な欲望概念に反映しているのではないかと考えたのだった。今回掘り下げて考えてみたいとおもっているのもこの点にかんしてであり、それはラカンの解釈だけでなく、デリダの解釈についても資するところがあるはずだ。というのもエティエンヌ・バリバールが述べているように、「大哲学は(そしてデリダの哲学は、深さ、独創性、複雑さ、影響力、挑発力のいずれの基準に照らしても、疑いなく大哲学である)、多少の差はあれ「同等の」、あるいはみずからがどのような選択をおこなったのかをよりよく理解することを可能にしてくれる他の哲学との対決および相互作用という観点からのみ、正しく理解され、議論されうる」*1からである。ラカンが哲学者ではないということは、さしあたりここでの問題にはならない。というのもラカンを「まっとうな仕方で形而上学化する」ということは、ここでの私の目的の一部をなしているからである。

*1:エティエンヌ・バリバール「終末論対目的論」『デリダ──政治的なものの時代へ』所収、藤本一勇/澤里岳史訳、岩波書店、2012年、55頁。

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書評 ブルーノ・ラトゥール『地球に降り立つ』

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ブルーノ・ラトゥールは共同でキュレーターを務めた台北ビエンナーレ2020のコンセプトを、「あなたと私はおなじ惑星に住んでいない*1」と設定した。本書『地球に降り立つ』(新評論)のなかでラトゥールが示そうとするのも、今日の富裕層がもはやその他のひとびとと地球を共有しようとはしていないという衝撃的な「仮説」である。ラトゥールにとって、グローバリゼーション、世界的な格差の増大、組織的な気候変動否認の企ては、三つの相互に結びついた現象であり、その背後には「支配階級の相当部分[……]が自分たちとその他すべての人類とを住まわすほど地球(earth)は広くないという結論にたどり着いたこと」(14頁)があるという。以下、要約を示そうとおもう。

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マーティン・ヘグルンド『ラディカル無神論』(書評)

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マーティン・ヘグルンドのデリダ論(『ラディカル無神論』)の明晰は称賛にあたいするものだが、それにはどうやら代償がともなっているようだ。ヘグルンドは、「望ましいもの」はすべて《変転しうること、頽廃しうること、そして汚されうるということ》を免れないといっているが、わたしは以下のポレミカルな書評が、この表現の真実を明かすものであったらと願っている。《これらの脅威は望ましいものすべてにとって本質的なものなのであって、それらが除去されることなどありえないのだ》。*1

*1:『ラディカル無神論』、吉松覚・島田貴史・松田智裕訳、法政大学出版局、2017年、18頁。以下、出典の明記しないすべての引用は同書から。

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マルクス・ガブリエルを擁護するために


アントン・コッホが皮肉を効かせつつ指摘しているように、マルクス・ガブリエルは「ポスト構造主義者たちに対しては、[……]実在論を主張するが、ひるがえっては科学者に対しては、物理学を自体的存在の尺度に高めようとはしない中立的実在論を指摘する」。コッホのこの皮肉は、実在論を根底的に新しく転換的なものと見なす(ガブリエル自身の態度だけでなく)受容者たちの態度に向けられている。「書評欄では、実在論は革命的だということになっている。どうやらその責任者たちは、あまりに多くポスト構造主義者的な文献を読みすぎていて、専門文献を読むことがあまりに少ないようだ。というのも同業者たち、とりわけグローバル化されたアメリカの同業者たちのあいだでは、実在論が、しかも科学的実在論が長く揺るがしがたい根本教義なのだから」(118)*1。コッホの皮肉は従ってガブリエル自身に向けられたものというより、実在論が根底的に新しく見えてこざるをえないようなある視点に向けられている。より正確には、伝統の断絶そのものに向けられていると言っていい。というのもガブリエルの実在論に新しさがあるとすれば、まさにその伝統の縫合作用にあるようにおもわれるからである。

*1:『現代思想』2018年10月臨時増刊号。本誌からの引用は頁数のみを括弧内に表記する。

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