How to Breathe

新刊哲学書の比較的詳細な書評

書評 ブルーノ・ラトゥール『地球に降り立つ』

      1

ブルーノ・ラトゥールは共同でキュレーターを務めた台北ビエンナーレ2020のコンセプトを、「あなたと私はおなじ惑星に住んでいない*1」と設定した。本書『地球に降り立つ』(新評論)のなかでラトゥールが示そうとするのも、今日の富裕層がもはやその他のひとびとと地球を共有しようとはしていないという衝撃的な「仮説」である。ラトゥールにとって、グローバリゼーション、世界的な格差の増大、組織的な気候変動否認の企ては、三つの相互に結びついた現象であり、その背後には「支配階級の相当部分[……]が自分たちとその他すべての人類とを住まわすほど地球(earth)は広くないという結論にたどり着いたこと」(14頁)があるという。以下、要約を示そうとおもう。

グローバル化を推進したエリート自身が、もはや地球(globe)がすべてのひとのものではないと気づいたとラトゥールはいう。人類は、近代化を推進する統制的理念としての世界、つまり「人類共通の地平ーー誰もが繁栄を謳歌する平等世界」を失った。ドナルド・トランプのようなデマゴーグですら、ラトゥールが「新気候体制(New Climativ Regime)」と名づけるそうした歴史的状況の兆候のひとつにすぎない。「気候(Climate)はここでより広い意味での、「情勢」(Climate)、すなわち人間と人間生活の物質的条件との関係を指す」。気候「危機」とは従って、たんなる気候「変動」の問題ではない。気候危機の深刻さは人類史規模、ひょっとすると地質年代規模で考えられなければならないはずのものだが、ラトゥールはそれを同時に、近代というプロジェクトの終焉と結びつける。問われているのは世界と人間の新しい関係のあり方だからである。

近代はそれ自身の形而上学を世界にたいして課してきた。世界は二つの属性――物質と精神――からなるというデカルト以来の近代形而上学は、精神が物質を支配し、自由を解放するという「大きな物語」の基礎となった。この基礎が崩壊したのである。近代の国家システムもまた、そのような「虚構」をもとに形づくられている。ラトゥールにとって今日の政治システムの明白な行き詰まりは、システムの内的な欠陥のせいというより、それが砂上の楼閣であり、それ自身の形而上学以外の地盤をもっていないことによる。危機はこの地盤の喪失という一見して仮想的な現実ともかかわる。

ラトゥールの考えによると、われわれの生きている現実は、客観的世界として対象化可能な事物の集合から成るのではなく、もっと複雑な主体と対象のモンタージュを成す。われわれが「自然」と呼んで対象化するモノ(たとえば土地)も、それ自身をエージェンシーとみなさなくてはならない。そうしなければ、不活性でないモノたちは、自然を対象として支配しようとする傲慢な人類に叛旗を翻すだろう。それは、人類から独立した自然が、それ自身に固有の活性をもって、われわれに仕返しをするというような話ではない。「人新世(アンスロポセン)」という名称の意味するところは、自然と人類の長きにわたる共犯関係にほかならないからである。科学的実在論を含意する近代形而上学にもとづいては、この共犯関係を理解することができない。世界がひとつの認識論的地平であるということ、たとえば社会的現実は神経科学および進化生物学へと、生物学は分子化学へ、分子化学は素粒子物理学へと還元され、その各々のエレメントがひとつの統一世界(すなわち宇宙)に属するという展望は、認識論的に誤っているというだけでなく、それ自体がひとつの理想としても失効したのだ。それがラトゥールの診断である。世界を改善するという無限のプロジェクトは、地球の有限性にたいしてあまりにも大きすぎた。

近代化がもはや不可能だとするなら、それは進歩、解放、開発の理想を現実化させる惑星地球(Earth)それ自体が存在しないからだ。結果的に、帰属のすべての形が変容を始めている――地球(globe)への帰属、世界(world)への帰属、地方への帰属、特定の土地区画への帰属、世界市場・土地・伝統への帰属など、すべてが変化している。(34-35頁)

ラトゥールの見立てでは、地球そのものが警告を発しているのだ。この警告の人間的な意味は、いまや「移民の増加、格差の爆発、新たな気候体制」としてあらわれている。ラトゥールが強調するのは「実はこれらは同じ一つの脅威である」ということである(25頁)。グローバリゼーションの理想が崩壊し、気候変動の危機的状況が科学者によって伝えられると同時に、生じた政治的反応は、あたかも地球という惑星を二つに分割するかのような光景であった。

エリートたちは、すべての人が享受する未来などないと心底確信するに至った。だから、連帯責任の重荷をできるだけ早く捨てようと心に決めた――ゆえに規制緩和となる。(人工のわずかな割合を占める)自分たちが難局を生き抜くには、金ぴかの要塞まがいのものを建てなければならない――ゆえに格差の爆発的増大となる。共有世界からの闘争というあくどい自己中心主義を隠すには、地球の脅威を一笑に付すことだ。実際には脅威があるから一目散に逃走する――ゆえに気候変動の全否定となる。(38頁)

ラトゥールの仮説によると、近代化とグローバリゼーションの理想としての「世界」は、こうして最良のものから最悪のものへと悪化した。カントの「世界」は、今日では火星に脱出を目論むスーパーリッチたちのものとなった。不死を夢見るルンペン資本家は、カタストロフィ以後の特権的空間のために投資活動をやめることはないだろう。何しろ投資家にとって、アポカリプスは不可能事以外の何ものでもないからである*2。ゲームが破壊をもたらすのなら、破壊を防ぐのではなく、破壊によって活況を呈するもの、破壊以後を生き延びるものへと投資せよ。気候変動を否認するエリートも彼らなりに、その脅威を深刻に受けとめているのである。

だからラトゥールにとって「問題は認識能力の欠陥を直すことでも、その治療法を探すことでもない。同じ世界に住み、同じ危機に挑み、共に探求できる景色を知覚し合うこと、そうした営為をどのように実践するかが問題なのである」(47頁)。つまり問題は、啓蒙の欠如ではないということだ。とりわけ客観的認識が足りないのではない。欠けているのむしろわれわれが共有することのできる実践の場、かつて世界と呼ばれていた「意味の場」にほかならないからである*3。「いま複数の世界、複数のテリトリーが存在する。それらが互いにぶつかり合い、両立不可能な状態にある。問題を解く鍵はまさにそこにある」(48頁)。

ラトゥールが「地球に降り立つ」という表現を用いるのはここにおいてだ。ラトゥールはエージェントとしての地球または大地的存在を、「テレストリアル(Terrestrial)」と呼ぶ。降り立たなくてはならないのはそれ自体が一箇の政治的アクターであるようなテレストリアルにたいしてである。というのもラトゥールの見立てによれば、今日の政治体制は端的に「その物理的内容を失って」おり、「政治はまったく何とも関わっていない」(66頁)と考えられるからだ。「見た目とは違い、政治の要は政治意識ではなく、地球(world)の形と重さなのである。政治意識の機能はそれに反応することだ」(83頁)とラトゥールはいう。



      2
 
アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツが1919年に書いた詩で表現したように、現在は「最良の者たちがすべての信念を失い、他方で/最悪の者たちは熱意に満ちている*4」ような時代である。ブルーノ・ラトゥールの『地球に降り立つ』はそうした時代の状況を描写する著作であるというより、枠組みをあたえ、たとえるなら地図のない荒野に羅針盤でいくつかの目印を立てようとしたものといえる。方位磁針として、近代化の指針はもはや役に立たないとラトゥールはいう。プロジェクトとしての近代化は、彼が本書で単純化して示したバージョンによると、無限の地球(Globe)を前提とするのであり、大文字のGで書かれるグローブは、他方ではローカルな民族、土地と住人、マイノリティとインディアンを置き去りにして、負のグローバリゼーションとも呼ぶべき現象を生み出してきた。近代的な工業化と資本主義経済はナショナリズムを生み、置き去りにされているひとびとにたいして近代主義者はグローバリゼーションの恩恵が「トリクルダウン」でもたらされると嘯いた。この幻想が気候危機によって破綻したのである。ラトゥールの見立てによると、大文字のGを目指す近代の無限に楽天的な方向は、通常反動とみなされる「ローカル(Local)」への回帰とおなじベクトルを構成するものである。

近代化というベクトルにはこうして一方には進歩的なGの方向と、通常は反動的とみなされるLの方向への回帰という二重の推進力がある。進歩的な左派であれ保守的な右派であれ、既存の政治はこのおなじベクトルの上での対立によって構成されていたが、近代化そのもののベクトルには逆らっていない。しかし、トランプ現象によって代表されるような昨今の極右ポピュリズムはちがうのだとラトゥールは考える。近代化のベクトルにちょうど交差するように、大文字のGで表記される地球惑星から脱出し、気候変動を組織的に否認しようとする動きが一部の富裕層のなかにみられる。ラトゥールにとってこれは一過性の現象ではない。というのもトランピズム自身が「テレストリアル」という第三のアトラクターによってちょうど反対側から動機づけられた現象だからである。トランピズムを特徴づけるのは、「この世界の外側へ」(59頁)という動きである。

しかしここでいくつかの疑問が浮かぶ。われわれは「テレストリアル」の実在性をどのように理解すべきなのか? 問題は、多かれ少なかれ近代的な国家システムとの関係において、金融資本主義的な国際経済秩序とのかかわりや司法領域および官僚制とのかかわりにおいて、ますます無視できないものとなりつつある地政学的緊張とソーシャルメディア上のイデオロギー的力場との関係において、テレストリアルという「政治的なもの」の位置と役割を理解することだろう。ラトゥールが主張するように、新気候体制においては、われわれが従来の政治的アクターを超えた動員を必要としていることに疑いはない。しかし歴史家のアダム・トゥーズが疑問を提示しているように、経済という「第二の自然」が今日のわれわれの政治的条件にもたらす深刻な亀裂については、どうなるのだろうか。

自然が政治の外部としての役割を果たさなくなったことが現在の真に決定的な不安定化の要因であるとすれば、第二の自然、すなわち経済が国家秩序を不安定にし始めたことによる第二の不安定化もある。2008年や2020年のような経済危機は、単に国家による介入を必要とするだけではない。世界経済がうまく機能していても、あるいは特にうまく機能しているときにすら、結合した不均等な成長が既存の国家権力の構造に挑戦しているのである。これは18世紀に遡る「貿易の嫉妬」問題であり、かつては自由主義がその解決策となると考えられていた。しかし自由主義はつねにつぎのような暗黙の前提の上に成り立っていた。すなわち、世界的な経済成長が普遍的な祝福であるとみなされていたことには、まず英国、つぎにアメリカの世界的な覇権によって支えられていた繊細な世界秩序を乱さないという条件があったのである。この10年間のあいだに崩壊したのはこの確信である。グローバリゼーションに懐疑的なのはブルーカラーポピュリズムだけではなく、ペンタゴンもそうなのだ。*5

これを書いている2021年4月22日現在、アメリカのバイデン大統領が主催する気候変動サミットが開かれている。それはバイデン政権が気候変動問題にかんしてトランプ政権とは異なるスタンスをとることを、各国首脳にたいして示すためのものでもある。中国の習近平主席は、2060年までにCO2排出量の実質ゼロを目指すとすでに表明しているが、ブルームバーグは「両国の関係が冷え込む中でも気候問題は協力できる分野の1つであることを示唆している*6」と述べた。これははたして楽観的なニュースだろうか。少なくなくとも、世界中のエリートが手をとりあって気候変動を否認し、地球を脱出(ないし分離)しようとしているという動向からの帰結とはみえない。いえることのひとつは、トランプ政権の帰結のなかにアメリカのエリートがポピュリズムの破壊性を認識したことが含まれるということである。さらに、バイデン政権のとるスタンスがラトゥールの見取図でいうと近代化のベクトルに添うかたちで気候問題を扱おうとしているとしても、おそらく中国はそうではないということである。結果的に、気候危機は今日の国際的な外交政策の目標というより一種の前提条件となったのだ。中国の報道官は、気候問題にかんするアメリカの立場を「帰ってきた王様」ではなく「高校に戻った不登校の生徒」だと表現した*7。トゥーズは、「アメリカの支配階級の一部が、規制緩和、不平等、気候変動の否定を両立させて逃避行をするのは魅力的だったとしても、なぜそれが中国のエリートにとっても当然の選択ではなかったのか」と問うているが、これは興味深い問題である。

新自由主義的なグローバリズムと世界的な格差の増大の背後に結びつきがあることは、これまでもつとに指摘されてきた。しかもそれは、富裕層による闘争的な階級再編のプロジェクトだったとの指摘もある*8。しかもアメリカの一部の富裕層は、その制約のない政治的影響力を気候変動の組織的な否認のために行使してきたというのも事実のようである*9。ラトゥールの見取図はこうした敵対的現実の根底にあるものに実体的身分をあたえる。それがテレストリアルである。テレストリアルは人間の近代化プロジェクトへの地球からの反発の総体として一方では理解できるものだ。つまるところグローバリズムが「地球をめぐる制約の問題」(36頁)を露呈したとすれば、この有限性は人間の活動にたいする抽象的な限界というより、それ自体を政治的アクターとして捉えなければならないというのがラトゥールの考えである。トランピズムに代表される「この世界の外側へ」と向かう動きは、テレストリアルのアトラクターを反対側へと逃れようとするものであり、そのベクトルはちょうど近代化のベクトルと直交するものとして定義される。この見取図によって、いわゆる昨今のポピュリズムにたいする対抗的な指針も用意される。すなわち、テレストリアルとしての地球に降り立つこと。

ラトゥールの見取図は資本家の支離滅裂といってわるければアドホックマキャヴェリズムにたいし、また欧米型極右ポピュリズムの一貫性のないイデオロギーにたいし、一種「懸命な陰謀論」ともいいたくなるような理解をあたえてくれる。彼らの合理性をわれわれは理解できないかもしれないが、彼らが何を逃れようとしているかは理解できるというわけだ。しかし資本家や権威主義的体制がテレストリアルと向きあうとき、はたしてそこに何が生じるだろうか。実はコロナウイルスパンデミックによってわれわれが強いられたのも、そうした状況ではなかったか。そこで、中国共産党権威主義が、ひょっとすると地球で最初の偉大なテレストリアル的体制(になる)ということもありうるのか、と意地悪な問いを立ててみたくなるのである。