How to Breathe

新刊哲学書の詳細な書評

マルクス・ガブリエルを擁護するために

2018年10月臨時増刊号 総特集◎マルクス・ガブリエル ―新しい実在論― (現代思想10月臨時増刊号)

2018年10月臨時増刊号 総特集◎マルクス・ガブリエル ―新しい実在論― (現代思想10月臨時増刊号)


アントン・コッホが皮肉を効かせつつ指摘しているように、マルクス・ガブリエルは「ポスト構造主義者たちに対しては、[……]実在論を主張するが、ひるがえっては科学者に対しては、物理学を自体的存在の尺度に高めようとはしない中立的実在論を指摘する」。コッホのこの皮肉は、実在論を根底的に新しく転換的なものと見なす(ガブリエル自身の態度だけでなく)受容者たちの態度に向けられている。「書評欄では、実在論は革命的だということになっている。どうやらその責任者たちは、あまりに多くポスト構造主義者的な文献を読みすぎていて、専門文献を読むことがあまりに少ないようだ。というのも同業者たち、とりわけグローバル化されたアメリカの同業者たちのあいだでは、実在論が、しかも科学的実在論が長く揺るがしがたい根本教義なのだから」(118)*1。コッホの皮肉は従ってガブリエル自身に向けられたものというより、実在論が根底的に新しく見えてこざるをえないようなある視点に向けられている。より正確には、伝統の断絶そのものに向けられていると言っていい。というのもガブリエルの実在論に新しさがあるとすれば、まさにその伝統の縫合作用にあるようにおもわれるからである。
 しかし大陸哲学と分析哲学の分断のようなものは、ドイツの哲学者にとってはそれほど自明のものではないらしい。コッホ自身が「解釈実在論」なるものを、ガブリエルの「中立的実在論」(わたしはそれを無条件的実在論と呼んでみたい気がするのだが)に対する批判を通して素描しているけれども、その素描から判断するかぎりでは、あきらかにドイツの哲学の社会学的(教育的)状況は、他の国々と比べて異質な水準にあるようである。しかしいずれにしてもその縫合は、反動としてではなく、皮肉とともに真に受けるにあたいするものである。ガブリエルの実在論が真正の意味では新しくないとの皮肉は、コッホの場合にはいざ知らず、日本の哲学の受容状況のなかで反復されるとそれ自身の方が反動めいて見えてくる。日本で支配的な受容者たちの態度は、ガブリエルの実在論は「構図としては何も新しい話はない」(104)という(本誌討議での)発言に代表されている。しかしガブリエルの実在論に新しさがあるとすれば、より大局的な「構図」そのものを問い返すだけの力をもった枠組にこそまずは認められなければならない。
 ではガブリエル自身の「伝統の断絶」に対する判断はどうなっているのだろうか。彼は以下のように述べている。「実質的な断絶は、現象学・解釈学と分析哲学のあいだにあるのでも、フランスとイギリスといった国家間にあるのでもありません。実質的な大断絶は、一方で「わたしたち哲学者は絶え間ない実験の偉大な成功(科学)につきしたがうべきだ」と考える人々と、他方で「哲学はたしかにあやふやな方法論に依拠しているが自律した営みである」と考える人々のあいだにあります」(21)。この評決に尊重すべきものがあるとしても、わたしはまずは実質的な断絶がまさに「現象学・解釈学と分析哲学のあいだにある」とする視点を構成すべきだと考えている。その視点こそが、ガブリエルの実在論に対して反動的なものを授ける当の視点にほかならないようにおもわれるからである。それは簡単に言えばフッサールとハイデガーの遺産相続人を自負しているひとたちの視点である。彼らにとって、現象学と分析哲学のあいだにはまさに実質的な断絶が存在するように見えてくる、そうした視点が存在するのではないだろうか。それは哲学的方法を科学的基準から別かち、ある種の差異を構成する哲学に固有のものを是認する視点である。その固有性の主張は、とりわけフッサールとハイデガーの遺産を継承する大陸哲学の側に認められるものであって、ここに分析哲学との対称性があるとは言えない。大陸哲学において遺産の相続は実質的に構成的なものを授け、そのことが科学一般また分析哲学の遺産を継承することを妨げているとしたらどうだろうか。ここには二重の意味での反動がある。まずその視点は、ガブリエルだけでなく他の思弁的であったり構成的であったりする(大陸的伝統の内外にかかわらない)哲学の根底的な新しさの主張を――むしろそちらの方が――反動的なものに見せている。またそれだけでなく、大陸的伝統を分析的伝統に接続し翻訳しようとするすべてのこころみを反動めいたものに見せている。そこには現象学その他の遺産を認知科学や神経科学に接続しようとするこころみも含まれる。その視点は反動への恐れに心底貫かれることによって、まるで自身を反動的なものとして提示せざるをえないかのようである。しかしそこにはたんなる遺産の継承問題だけがあるのではもちろんない。そこには真面目に賭けられているものがあるのだ。この賭金が総じて大陸哲学なるものを科学に対する反動的否認へと促し、それとともに「固有の運動」のようなものを授けているのだとしたら、その場合にはこの否認には理由があるとする立場を理解する必要があるだろう。負債は同時に賭金なのであって、遺産の継承は同時に企投的な身ぶりとして理解されなくてはならないのである。
 ところでわたしは基本的には、ガブリエルの哲学上の企図は認識論の「翻訳マニュアル作成のこころみ」として擁護されるべきものだと考えている。またガブリエルは実在論の枠組を通してそのマニュアルを構築しているので、そのこころみの成否は、厳密に認識論的な問いから切り離しがたいものとして提示されている。けれどそれと同時に、そうした問いを立てる可能性そのものが当のマニュアル作成のこころみによって左右されるものにおもわれるのである。この意味でわたしが擁護したいと望んでいるのは、ガブリエル自身によって提供されたガブリエルを批判する可能性そのものである。とはいえある種の反動(それに対してわたしがガブリエルを擁護する必要があると感じているもの)にも理由があるのであって、以下の論考は実のところ、その反動に理由を授けるものを解明するという以上の意図を持っていない。反動を理解したとき、ガブリエルの地道な翻訳作業とその帰結が批判的に問い直されることになることになるだろう。そのときもっとも決定的なポイントは、そこに翻訳不可能なものが賭けられているかどうかということである。翻訳不可能なものはおそらく決定的には伝統の断絶を「超えた移行(trans-lation)」へと供されることはないのだろう。しかしベンヤミンの翻訳論によると、翻訳不可能なものが救済されるのは、それが翻訳可能性の網の目のなかに投じられた後でしかない。以下の論考はその「後で」のための準備作業のようなものである。


議論を明確にするために、わたしの出発点を明示しておくとすれば、それは「大陸的実在論なるものが存在する」という仮定である。しかしこの大陸的実在論なるものは、もちろんそれ自体として存在したためしはなく、その正当性がそれとして(すなわち言葉の一般的な意味での実在論として)主張されたためしもなかった。にもかかわらずわたしがあえて「大陸的実在論」なるタームを用いるのは、きわめて曖昧な枠組としての「大陸哲学と分析哲学の対立」という、これまでほとんど明示されたことのなかった伝統の断絶の前提に光をあて、それに対してある制限を与えるためである。しかしこの場合に与えられた制限は、大陸哲学の賭金を損なうものであってはならない。もし仮にその賭金の大きさゆえに、伝統の交流が阻まれているのであれば、その賭金を吊り上げるものにこそまさに焦点を定める必要がある。「大陸的実在論」なるものはこの場合、ある対立軸を構成するための名称にすぎない。わたしが焦点をあて制限を加えたいとおもっているのは、この対立軸にであって、その構成のされ方が、分析哲学の議論領域の構成とはまったく異なるかたちで、「大陸哲学一般」の曖昧な固有性をかたち作っている。そして大陸哲学の賭金を吊り上げ、負債を大きくしている働きのひとつが、この場合には大陸的実在論なのである。しかしこのとき大陸的実在論は、それに対する懐疑論としての「大陸的反実在論」からも捉え返されなければならない。この大陸哲学に内的な懐疑の働きをもっとも急進的なかたちで(ということはつまり賭金を吊り上げる仕方で)代表しているのがデリダである、というのがわたしのもうひとつの仮定である。
 これはマッピングという手法で大陸哲学の曖昧な固有性に一定の輪郭を授けることである。今日大陸哲学と一般的に称され、場合によっては「ポストモダン思想」と蔑称的に包括される議論領域においては、それぞれの論者同士の「近さ」ないし「遠さ」は暗闇のなかに置き去りにされてしまっている。わたしがマッピングという手法を用いるのは、彼らの議論の根底にある前提に光をあてることで、その共属性を明示化し、論者同士の近さを測るためである。そしてそのためには、ある仕方で対立軸を構成するほかないというのがわたしの考えである。
 わたしはまずラカンを典型的な大陸的実在論者として召喚してみたい。少なくとも一時期のラカンは(ある制限された意味において)強固な実在論者であった。しかしその場合には、実在論とは「無意識の構造の実在論」であって、ここでただちにラカン自身の存在ないし真理の定義(それらは現実界に属するものとされる)を参照するなら、実在論としての象徴界の言説は、まったく破綻した印象を与えざるをえないということはあきらかである。ラカンにおいてだけでなく大陸的実在論を定式化するさいの困難は、二重化された存在と真理の概念にある。この二重化は奇妙な仕方でしか解消されない。すなわち実践という回路を経ることによってしか。ここでは、無意識の構造の実在性がいかなる意味において主張されるのか(いかなる仕方で実践を経由するか)概略を示すにとどめたい。
 まずラカンは無意識の構造が存在すると主張している(「無意識は言語のように構造化されている」)と無理なく見なすことができる。もちろんその場合には、無意識の構造は言語的に分節化されることになる。しかしその実在論的含意は、とりわけ無意識の構造に因果的にアクセスできるという主張のうちに認められるべきものである。無意識の構造を真なる言明を通して素朴に語ることができるとラカンは見なしているわけではないのであって、そのため無意識の構造の分節化がある種の合理性を前提しているとしても、その合理的条件については明示されないままにとどまることになる。これは、ラカンの「想像界・象徴界・現実界」という枠組が見たところカントの超越論的構図を引き継いでいるにもかかわらず、その枠組自体が合理的条件を与えるようにはできていないという点で、カントから遠く離れるポイントである。
 このことが哲学者に対してラカンの言説を警戒させるにしても、さしあたりラカンの言説を象徴界の実在論として読み解くなら、ここに権利上の意味において科学的推論一般からかけ離れたものを認めない、ということも可能かもしれない。科学的推論において重要な役割を果たす「理論」は、文字通りの意味では真でないとしても、それが実在論的含意を免れることはないのだし、このことが科学的実在論においてまさに争点になっているものだとすると、その文脈に応じて次のように分節化することができるだろう。ラカンの象徴界の理論において「被説明項」として端的に「存在するもの」は「症状」である。説明されるべき「現象」としての症状は、まさに「説明項」を置くときにのみ説明されるという意味では、パースが科学的推論に与えた定式としての「アブダクション」ないし「リトロダクション」と形式的にかけ離れたものではない。ところが症状は特有の意味作用を持つのであって、そのなかに言葉でもって直接働きかけることができると解釈されるのである。このことが症状の意味論(および主体の統辞論)としてラカンの象徴界の言説を特徴づけるとともに、その実在論的含意を複雑にしている。
 ラカンの言説を実在論として読み解くときに強調しておくべきことは、まず何よりもそれが因果的に介入できる経験(臨床)にかかわるということである。ところがその経験は、公開的に反復できるという意味での「実験」ではない。この実験の公開性を担保するという要請が科学の方法論を規定しているとすれば、ラカンの言説はあきらかにこのような要請に従うものではない。それは別の(症状に効果的に働きかけるという)要請に従っているのである。従ってラカンの言説は理論というよりむしろ地図のようなものであって、それがなければ精神分析の臨床家は迷子になってしまいかねない、未踏の経験にかかわるものなのである。重要なのは臨床場面のなかで因果的に効果的な発言が可能であるということの方なのだ。
 ラカンが初期のセミネールのなかで力を尽くしているのは、この精神分析の臨床場面のなかで効果的な発言が可能であることの条件を問うことである。このことから、神経症と精神病を区別するというラカン派にとってきわめて重要な要求が出てくる。神経症者に対するのと精神病者に対するのでは、効果的な発言(および沈黙)のアスペクトが異なるとされるのである。伝統的な精神病理学と精神分析に対するラカン派のもっとも強固な主張とは、精神病を神経症から区別しなければならないし、またできる、というものだろう。しかしその臨床的介入の可能性の条件を問うことと、その条件の記述の合理的条件を問うことは、おなじことではないのであって、ラカンの初期のセミネールでは前者の条件を記述するために、「象徴界」「大文字の〈他者〉」「充溢したパロール」といった概念が練り上げていった。ラカンはそうした諸概念の配置を独特の「マテーム」を通して纏めることになる。ラカンのマテームは分析家に対して「地図」の役割を果たすもので、無意識の構造や臨床的介入の目印となるものを、(ウィトゲンシュタインの区別を参照するなら)いわば語るのでなく文字通り示すものだと言えるだろう。
 少なくとも初期のラカンのセミネールは徹頭徹尾教育的意図に貫かれたものであって、あらゆる教育的テクストがそうであるように、受講者はまずはラカンの理論(地図)をドグマ的に用いることが要請される。従ってラカンによって「示されたこと」は、ラカン派の分析家にとってはドグマ的な価値を有する。これを通して有効な臨床的介入が反復されることが期待されているのだが、ラカンの権威を除いて、議論の認識論的水準において原則的にその反復を保証するものが何かあるのだろうか。しかしラカン理論なるものが存在するとすれば、それは実践的水準を起点に立てられたものとして考えられなければならない。そのため理論的関心に対する実践的関心の優位ということを踏まえると、ラカンの言説が見かけ上きわめてドグマ的であることそれ自体はおそらくそれほど問題ではない。しかしなお高次の哲学的水準で問われるべきことがあるとすれば、実践的経験に対して理論が齟齬をきたすようなとき、後者が合理的修正に対して開かれたものであるのかどうかということである。
 しかし「反実在論者」としてのデリダは、そうした問いをラカンに対して向けているのではない。デリダはもちろん、たんに無意識の構造なるものは存在しないと言っているわけではないのだが、(やや仮構的に単純化して述べるとすれば)無意識の構造なるものを言語的に分節化するときには、いつでもそこに不可能な(形而上学的)前提を忍び込ませることになるのだと批判している。この場合、ラカン派にとってデリダの批判がダメージを与えるものではないことはあきらかだろう。無意識の構造の分節化が不可能な前提を忍び込ませているのだとしても、実際にそのように働いていることが示されれば十分だからである。いやむしろ、無意識の構造の適切な理解の仕方とは、適切な仕方でそこに介入できることの条件にすぎないのであって、たんに無意識が実際に働いているという事実が示され、その働きのなかに――何らかの意味で予測可能なかたちで、あるいはたんに予測を欠くというよりはましな仕方で――因果的に介入できることが示されればそれで十分なのである。一般的に言って、大陸的実在論の懐疑論に対する典型的な応答のようなものがあるとすれば、ガリレオに倣って「でもそれは動いている」と言うことなのである。
 ここにある齟齬はたんなる「ポストモダン思想」の一事例のようなものではない。デリダの批判がより一般的な射程を有しているとすれば、上記にとり挙げたラカンのケースもたんなる一事例にすぎぬようなものではない。理論的基準に対する実践的回路の優位ということが、大陸的実在論一般を特徴づける所作であるとしたら、おなじパターンをマルクス主義者からフーコーやドゥルーズなど「ポストモダン」の代表的な思想家から抽出することは容易だろう。しかしここで言っておかなければならないのは、大陸的実在論にとって認識論そのものはそれほど重要な賭金ではないということである。むしろある全般的な記述領域が問題とされているのであり、大陸的反実在論はその記述の条件について反論の矛先を向けるのである。どのように記述するかということ。その「記述の仕方」において実在論的含意を拭い去れないように見える場合を、わたしは大陸的実在論と呼んでいるだけなのだ。
 おそらく大陸の反実在論者たちはその「何」について、それが重要な賭金であるということについてあえて反論を企てようとはしないだろう。なかでもデリダはその「どのように」ということについて、強固な主張を持っていた哲学者であったようにおもわれる。そもそも大陸哲学と分析哲学の認識論は、大陸哲学にとって内的な齟齬――「何」と「どのように」の二重性――において翻訳を阻まれているのだとしたらどうだろうか。
 ここでデリダが構造主義一般を批判している重要な箇所を引用しておこう。デリダの遺産継承的身ぶりそのものは、その内実が問われることがなければ、そもそも翻訳に供されることは不可能だろうし、その内実からして翻訳を不可能にしているものがあるのだとしたら、まさにそのことが問われなければならない、そうした典型的な事例を提供しているようにおもわれるからである。

ある生成の構造を、ある力の形式を理解すること、それは意味を得ることで意味を失うことである。[……]
 現象の起源として力を語ること、それはおそらく何も語らないことに等しい。それが語られれるとき、力はすでにして現象である。ヘーゲルは、現象を力によって説明することが同語反復であることを見事に示した。しかし、そう語ることで注目すべきなのは、力の思考ではなく、みずからの起源を語るために自己の外に出ることができないという言語のある種の無力である。力とは言語の他者(autre)であって、それなしには言語は言語ではなくなるだろう。
 そもそも、言語のなかのこの奇妙な運動を尊重するためには、この運動を次なる還元の対象にしないためには、影と光(自己−開示と自己−隠蔽)の隠喩[強調引用者]、西洋哲学を形而上学として創設したこの隠喩に立ち戻らねばならないだろう。
*2

デリダは光の隠喩と言っているが、もちろんここでの主張は光学的隠喩の特権性にあるのではない。隠喩一般の創設的機能、それも隠喩を通しての移行においてしか語ること(示すこと)ができないようなある創設が問題なのである。デリダは後に「隠喩の退隠」と述べることになる。隠喩の引き退き――それを隠喩的でない仕方で語ることは妨げられているにせよ――を語ること、いや書くこと。ここでの賭金は疑いもなくフッサールととりわけハイデガーの遺産の継承にある。ここに翻訳を妨げるものがあるのだとしたら? ハイデガーはそれを「存在論的差異」の名で呼んだのであった。そこで賭けられているものとは何なのか?


ルイ・モレルはわたしが「大陸的実在論」と呼んでいるものに似た定義を「存在論的リベラリズムと」という語に与えている。存在論的リベラルズムは、「物質性や実体性〔substantialité〕という語でしばしば期待されることを満たすことはないようなオブジェクト(社会的、精神的、虚構的なオブジェクト等々)に、さらにはより多くのありうべき諸存在〔êtres〕に、肯定的な存在論的立場を付与しようとする立場である」(152)。しかしこの定義はつまるところ「ポストモダン思想」なるものの賭金を切り下げることにしか繋がらない。大陸哲学の「ポストモダン主義」なるものがあるとしても、それは分析哲学におけるマイノング主義の復興と即座に対応するものとはかぎらない。わたしが強調したのは、大陸的実在論は必ずしも存在論(的反省をともなうもの)ではないということである。大陸哲学の賭金に固有の重さを授けるのは、実は存在論と懐疑論との対立ではなく、むしろその共属性にあるとしたらどうだろうか。存在論が目指されていない場合(ラカン、フーコー)と、存在論があからさまに目指されている場合(ドゥルーズ、バディウ)を区別することが許されるなら、わたしが大陸的実在論というタームで捉えようとしたのはむしろ前者の場合であった。このことの背景には、ハイデガー以来の形而上学への批判というきわめて強固な伝統の尊重が、大陸哲学の賭金を吊り上げ、独自の仕方で実在論へ向かわせているという事実への反省がある。実際、大陸的実在論で問題にされるのは「社会的、精神的、虚構的なオブジェクト等々」だけでなく、もっと一般的な意味で実践的空間の根源性のようなものである。フッサールが「生活世界(Lebenswelt)」という語で示そうとしたのとまさにおなじものがそこで賭けられているのだ。しかしフッサールの生活世界は、実践的関心を宙吊りにしたときにのみ、知的関心の対象として把握されるような何ものかである。そのため「生活世界」そのものの実在論は根本的に(方法論的に、つまり現象学的には)阻まれている。なぜならそこへと実践的にアクセスすることができるということの因果性が、まさに大陸的実在論の実在論的含意を規定している当のものなのだし、実践的関心を宙吊りにするということが、まさに現象学の方法を規定する当のものなのだから。「それに働きかけることができるなら、それは存在する」。としてもそれをどのように記述することができるだろうか。このとき現象学への道は阻まれている。もし大陸的実在論のようなものがあるとすれば、それと対立軸を構成する反実在論の急先鋒は、この意味で何よりもまず(広義の)現象学なのである。
 しかしこの「阻まれている」ということの意味をよくよく理解しなくてはならない。実践的関心を宙吊りにするかぎりで、現象学に固有の認識論的対象としての「現象」があらわれてくるのだとすると、まさにこの「阻まれている」ということが、現象学にとって特有の認識論的契機をなすものでもあるからである。とりわけハイデガーにとって、実践的関心が宙吊りにされるという認識論的契機は、存在論的に際立って重要な意義を持つ。

道具としての用具的存在者にそなわる存在の構造は、さまざまな指示関係によって規定されている。身近かな「事物」にそなわるこのような特有のわかりきった「自体相」が出会うのは、それらの事物を――ことさら注目せずに――使用しつつ、ときに使用不可能なものに行きあたることのある配慮においてである。ある道具が役に立たない――ということは、《……するためにある》というその用途への構成的指示関係が阻まれた、ということである。指示関係は、ふだんそれとして眺められているわけではなく、それらに配慮的にふくしていく態度において「現に」存在している。ところが、その指示関係が阻まれると――「……役に立たない」ということにおいて――、指示関係が表立ってくる。*3

実践的関心が阻まれるかぎりで、身近な事物は客観的対象として眼の前にあらわれてくる。ところがこの「失敗」そのものの構成に注意を向けると、事物にもともと備わった「指示関係(Verweisung)」が際立った仕方で認識へもたらされる。これがハイデガーにとって存在論そのものの契機となる。この実践的ないし規範的領域が事物の客観的平面に付加的に補足されるものではないことは、『存在と時間』の主要な主張のひとつである。ハイデガーは「用具性はそれ自体においてあるがままの存在者にそなわる存在論的カテゴリー的規定である*4と述べている。
 事物の客体性を前提することなく、その用具性をパラダイムとする存在論の構想は、われわれの注意を事物のより根源的な存在論的平面へと向けることを促すことになるが、同時にそれはある強固な限界に囲われている。それは言語そのものの限界である。とはいえここで安易に「言語論的転回」というタームをおもい浮かべるべきではない。というのもハイデガーにとって、言語が基礎にあるのではなく、むしろ自体的存在が言語のなかで開示される、そうした言語的規定に先立つ相が問題だからである。しかしこの言語的規定に先立つものは、まさに意味の領野のなかでのある「指示関係」としてしかあらわれてこない。言語は特権的であるが、それは「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」
*5からではない。少なくともハイデガーにとっては、言語を超えたものが存在することは疑いない。しかしその超越は、根源的に言語的であるような「意味の領野(fields of sense)」のなかにしかあらわれてこない。デリダが「現象の起源として力を語ること、それはおそらく何も語らないことに等しい」と述べたとき、これと異なることを言うおうとしていたのではないだろう。
 ここで、ハイデガーの「存在論的差異」という概念に眼を向けてみる必要がある。ハイデガーの存在論的差異の概念で言われているのは、われわれが存在者を「存在者として」理解するときに、つねにすでにそこで働いている「存在理解(Seinsverständnis)」の先行性である。「存在とは、存在するものを存在するものとして規定するものであり、およそ存在者が――これについてどのように論ぜられている場合にも――いつもすでにそのことを見越して存在者として理解されているゆえんのものである」
*6。あるものをあるもの「として(Als)」理解するということのなかで、つねに存在者の存在は理解されている。ところが「存在者の存在は、それ自体、一種の存在者「である」のではない」*7のであって、そのためこの「として」の構造を介して理解される「もの」を、具体的な存在者の方から(その特定の存在理解の方から)、抽象することでもって存在一般の意味を立てることはできない。存在一般の意味はあらゆる存在者の理解のなかで前提とされていながらも、この先行性そのものの方は奇妙にも隠れたままであり続ける。
『形而上学入門』での例を用いれば、(一般に語に三つの相があるとして)「時計」という言葉の意味は、記号としての時計と観念としての時計の相のほかに、その語で指示される具体相として時計の「ことがら」がある。ところが「存在」の場合には、どのように語が指示するものを辿っていこうと、存在のことがらそのものに到達することはなく、存在者から存在者へとどこまでも送り返されていくだけである。この意味の転義としての「として」構造が、形而上学や科学一般の条件であるとしても、存在者を理解すればするほど、存在一般の意味の理解はまったく阻まれることになる。ハイデガーの形而上学と科学一般への批判(その強調点は時期によって変わってくるが)の眼目はまさにこの点にある。そして『存在と時間』における「存在論」の企てとは要するに、存在理解の先行性として存在のことがらそのものの意味を問うことなのである。
 しかしどのようにしたら、存在理解はいわばそれ自体の理解にいたるのだろうか。あるいは少なくとも、思考されるべきものとして思考にもたらされることになるのだろうか。

なにかかがあるという事実やそれが何かであるという状態のなかに、また実在性や客体性、理念的存在関係の存立や価値の妥当性、さらにまた「与えられている[es gibt]」というときの存在のなかにも、存在が含まれている。これらのうち、いったい、どの存在者についての存在を読みとったらよいのか。どの存在者から出発して存在の開示をはじめたらよいのか。出発点は任意にきめてよいのであるか。それとも、存在問題の開発にあたって、どれか特定の存在者が優位をもっているのであろうか。そうだとすれば、この範例的な存在者はどれであり、またそれがいかなる意味で優位をもつのであろうか。*8

知られているように『存在と時間』では、こうして範例的存在者として「現存在」が選ばれることになる。それは見たところ伝統形而上学の身ぶりに従って人間が選ばれたかのようである。しかし現存在がことさらな存在者として立てられるのは、人間の事実的性格のゆえではなく、もっぱら人間のなかでのみ理解一般ということが生じるからでしかない。現存在とはいわばこの理解一般の可能性に対してあてられた名前にすぎない。現存在と呼ばれる存在者のなかでのみ(にとってのみ)存在理解の先行性のようなものが生じるのだとすれば、理解一般をもたらす「として」構造の生起それ自身が、現存在を範例的存在者として立てることのなかで問われている当のものなのである。
 しかしそうとは言っても、人間が言葉を話す存在者であるという事実だけは、際立った仕方で問いへと差し向けられざるをえないようにおもわれる。というのもそれは、理解一般ということに先行する事実的条件のように見えるから。しかしハイデガーにとっては、この人間が言葉を話すという事実ですら(しばしば誤って考えられているように)理解一般に先行する条件として考えられているわけではない。言葉を話すということが何らかの意味で特権的な事実性のようなものを構成しているとしても、それは言葉を話すがゆえにわれわれが存在を理解するからなのではない。理解一般に先行する条件がまさに存在理解なのであって、これは言葉がなければ生じなかったであろうことではなく、反対に、それがなければ言葉が生じなかったであろうことなのである。『形而上学入門』では次のように言われている。

もしそうなったら、言葉というものは存在しないことになる。語句の中で存在者が存在者として自己を開示するというようなこと、存在者が言葉で語りかけられたり、語り論じられたりするようなことは全く存在しないことになる。というのは存在者を存在者として言うことは、前もって存在者を存在者として理解すること、つまりそれの存在を理解することを含むからである。仮にわれわれが存在を全く理解しないとすれば、[……]そのときにはたった一つの語さえも全く存在しないことになるだろう。われわれ自身もものを言う者ではありえないことになるだろう。つまり、われわれはわれわれがいまあるとおりのわれわれではありえなくなるであろう。というのは、人間であるとはものを言う者であることだからである。人間がその本質の根拠においてものを言う者、唯一のものを言う者であるゆえにこそ、人間は然りと否とを言う者なのである。*9

そのためハイデガーにとって存在理解の先行性は、人間が言葉を話すという事実にすら先立って与えられるものとして考えられているのであり、むしろ人間の固有性の方がその先行性に関して解釈されることになるのである。たんに言葉を話すという事実が人間の固有性を構成するのではなく、ここでは「本質の根拠」と言われている存在理解の先行性の方が、人間に対して固有のものとしての言葉を授けるのである。
 従ってハイデガーにおいて「存在」は、いかなる意味でも規範的なものから切り離された身分としての事実的なものとして考えられているのではいない。通常事実的なものの事実性は、そこから規範的性格が捨象されているかぎりで、客観的なものとして眼の前に立てられる。そのさい規範的なものの規範性は、事実が先に立てられたものとして考えられているかぎりで、そこに後から付加される性質のようなものとして考えられることになる
*10が、ハイデガーにとっては、いわば事実的なものがそこから立てられるような「根源的に規範的なもの」としての存在の意味が問題となっている。
 存在は与えられる(es gibt)ということの先行性のなかで、存在は存在理解として与えらているのであってみれば、この意味では真理もまた規範的なものとして事実的なものから切り離されて考えることができるようなものではない。従って存在を規範に対する事実的身分として、真理を事実に対する規範的身分として、相互に対応しあうものとして区別する規定は完全に拒絶される。もし事実と規範のこの区分をハイデガーの枠組にあて嵌めることが許されるなら、存在が根源的であるのはそれが根源において真理とともにあるからなのである。また真理は、存在と共属的に根源的なものとしては、事実から分離された意味での規範という身分を有していない。だからハイデガーにおける存在の概念は、真理とともに考えられているかぎりで、言葉の通常の意味での規範的性格を脱し切ってはいないもののように見えてくる。しかしハイデガーの方からすると、言葉の通常の意味での真理の規範的性格は、存在の先行的な根源性が隠されたときにのみ可能になるものなのである。つまりあるものをあるもの「として」理解することの可能性が到来するかぎりで、つまり言葉の事実性の到来とともに、存在のそれ自体の理解可能性はまったく退くことになるのである。形而上学の歴史のなかで「存在の真理」の隠蔽が生起したという存在史(Geschichte des Seins)の理解は、こうした隠蔽が反復されることによって根源は近くなったり遠ざかったりするという観察を含んでいる。『存在と時間』の枠組からこうした後期に通じる問題意識のなかに共通するのは、このような真理と存在の根源的な共属性についての考えである。その共属性に向けての問いは、すでに『存在と時間』のなかで「避けることができない」ものとして明示的に立てられている
*11が、これはその後の思索を通して反復されるライトモチーフのようなものである。
 ハイデガーおいて存在は真理に引きつけられ、真理は存在に引きつけられて考えられている。このことを思考すること。あるいはたんに言うこと。これらはいかにして言うことができるのか、そしておそらくは言うことができないのではないか。そうした問題意識がいわばハイデガーの「言語論的転回」のようなものを規定しているのだが、しかしそれにしても、理解一般を可能にするものがある事実性の生起のなかに退くということ――その退くものをまさに存在と真理(あるいは連辞として「存在の真理」
*12)の名で呼ぶことは、まったく逆説的な状況をもたらしていると言うほかない。
 このことは、そこで名指された存在と真理を言葉の通常の意味での「存在」と「真理」に翻訳することを不可能にするばかりか、言葉の通常の意味での存在と真理なるものを思考することを困難にする。というかそうした差異の思考は、言葉の通常の意味での存在と真理なるものはなく、つまり(よくあるハイデガーに対する誤解とは反対に)そこから遡って確定できる本来的な意味での存在と真理の概念などはなく、それらには転義的な意味しかない
*13と宣言することにひとしいのだ。にもかかわらず、ハイデガーは存在と真理の意味の彷徨からさらに遡って、その非本来的なものの本来性に、固有の価値を担わせようとするかのようにその名を与える。そこにはおそらく次のような直観がある。すなわち存在の開示性(真理との共根源性)はまさしく衝撃として向こうからぶつかってきたのであって、いかなる制約(それが事実的であれ、歴史的であれ、超越論的であれ)もその衝撃を弱めることはないだろうとの直観である。その根源はいかなる移行(翻訳)も可能にしないようにおもわれるものなだけに、なおさらその生起は驚くべきものとして思考されるのである。その場合には、根源からの超越論的演繹のようなものはもっとも問題にされないものである。ただ事実的には根源の隠蔽として、また「存在史」のなかでの隠蔽それ自体の生起として、もろもろの移行が(それがなければそもそも形而上学が可能ではなかったような)「闘争」として解釈されることになるだけである。
 こうしたことのすべては形而上学の拒否としてわたしたちに与えられている。さらにハイデガーの存在論的差異とは、生活世界の実在論が可能ではないことにあてられた名前であり、またそれは、素朴実在論へと大陸的実在論の用語や議論領域そのものを翻訳するものを、(困難にするのではなく)まさに不可能にするものにあてられた名前でもある。ハイデガーを真に受けるなら、翻訳は困難であるばかりかまったく不可能なのだ。伝統の断絶には理由があるとするこの立場こそ、まさにハイデガーの差異の思考が正当化するものにほかならない。だとしたら、わたしたちは伝統の断絶を甘んじて受け入れるべきであって、伝統を縫合しようとするあらゆるこころみは、従って反動的なものとして棄却されるべきだということになるのだろうか?


ここでガブリエルの実在論の射程を検討する余裕はないものの、彼の「世界は存在しない」という主張が、基本的には伝統の「あちら側」に向けられたものであるということだけは押さえておくべきだろう。それは、あくまで素朴実在論が前提として暗黙のうちにコミットしているところの、「世界の形而上学」に向けられたものなのである。そしてこの批判は、ハイデガーの形而上学批判に相反するよりむしろ共通するところの多い考えである。前カント的な科学的実在論の議論は、たんに前カント的である(素朴である)という理由だけによっては棄却されない。それは認識論的に間違っているから棄却されるのである。では素朴実在論が間違っているとしたら、どのような実在論なら妥当なものとして受け入れ可能なのだろうか?
 マウリツィオ・フェラーリスは「新しい実在論」に対してガブリエルとは別の定義を与えている。モレルが言うところの存在論的リベラリズムとは異なるかたちで、フェラーリスは「社会的、精神的、虚構的オブジェクト等々」に実在的身分を提供する枠組を考えようとしている。しかしその枠組そのものは超越論的でも存在論的でもなければ、わたしが定義する意味での大陸的実在論と似たところもない。というのもフェラーリスは社会的なものに実在的身分を与えるために、まず前提としては、彼が「ドキュメンタリティ」と呼ぶものを除いて特別な存在要求をしていないからである。ドキュメンタリティとは要するに書かれたものの集合のことであって、実在論的にきわめて保守的な哲学者であっても、ドキュメンタリティの実在性を認めることは容易だろう。この点でフェラーリスはガブリエルのある種のリベラリズムとは区別される。フェラーリスの実在論はしかし根源的な主張を何も含まないわけではない。その点で彼のもっとも強い主張は、たぶん「志向性はドキュメンタリティから派生する」(191)という主張だろう。
 この主張に分析哲学者は首を傾げるかもしれない。書かれたものが心的なものに先立つということはどうして可能なのか、と。しかしエクリチュールの痕跡があらゆる志向性に先立つという主張は、大陸哲学にとって(デリダによって)馴染みぶかいものである。事実的時間関係のもたらすアポリアは、フェラーリスの議論にともなうデリダの反響を考えれば、回避することも不可能ではないかもしれない。しかしフェラーリスの議論のメリットは、デリダの痕跡を巡る議論を文字通り書かれたドキュメントに近づけることで、後者を分析哲学の文脈に挿入することを可能にしているという点にある。フェラーリスの議論は、たとえばデイヴィッドソンの「三角測量」の議論に通じるものを感じさせる。ここで論証することは諦めるが、おそらくフェラーリスの実在論は、デリダからデイヴィッドソンへの「翻訳」によって成り立っていると見なすこともできそうなほどである。
 フェラーリスの「新しい実在論」の議論は、わたしがフッサールの生活世界と同等と見なすものへと向けられた大陸的実在論と、あきらかにおなじ関心を共有している。しかしアプローチの点では完全に区別されるべきものである。いわばフェラーリスは、生活世界の間主観性について、そもそも客観的なものと想定される地平を前提することなく、そこから派生するものとして考えることが可能なものへと注意を促しているのである。ディヴィッドソンの「三角測量」にとっては、前提となるのは「コミュニケーション」という事実だけだった。他方でデリダの議論は、あらゆる事実性に先立つものとしての痕跡の構造に焦点をあてている。前者が超越論的基礎づけ主義に制限を与える目的があったとすれば、後者はそれがつねに破綻するほかないことを証言するものに眼を向けているのである。フェラーリスの議論を翻訳と見なすとき、そこでもっとも重要な賭金がとり零されていないかと問うことは、議論の構成上その「正しさ」を問うことでもあるだろう。
 またここで、ジョスラン・ブノワのガブリエル批判(「実在の領域と意義の地平」)にも眼を向けてみたい。これはフェラーリスの議論以上にこれまで見てきた論点(ハイデガーの存在論的差異)にかかわるものである。
 ブノワはガブリエルの実在論が、実在するもの(existant)という概念に対して有意義な内包を与えられていないのではないかと批判している。ガブリエルの実在論は世界以外のあらゆる対象が存在すると主張するものである。ガブリエルにとって何かが存在するということは、それが「意義領野」
*14にあらわれるということである。そして世界以外のあらゆる対象が権利上意義領野にあらわれることができるということを、ガブリエルの「意義領野」の理論は規定している。すると「少しばかり逆説的なことだが、ガブリエルの体系において「実在」という語がつねに意義を保持していると私には思われない」とブノワは言う。

事実的なもの――つまり実在的なもの、今あるようにしか存在できないもの――と、正確にないし不正確に事実的なものを縁取るという使命を担っている規範のあいだの隔たりが、私が「実在論」と呼ぶものの根本的な構造を構成しているように思える。この隔たりが正当なものであることを認め、この隔たりを守ることは、どのような形の接近であれ、ほかならぬ実在に接近するための前提条件――この前提条件によって「実在」という語が単純に存在することにおいて価値をもつ――であり、実のところ「実在」という語の意義の条件なのだ(136)

ブノワの主張は言葉の通常の意味での実在論に対してならごく正当なものであるようにおもわれる。要するにブノワは、ガブリエルの実在論が実在論たる機能上の資格を欠いていると見なしているのである。その資格とは、実在についてそれが実在するということの意義を与えるような制約であるようにおもわれる。その制約は、通常は存在論と呼ばれるものが与えるはずのものである。つまり何が実在するものであるかについて一定の基準を整備するものとしての存在論である。その存在論は適切に理解された意味論と異なるものではないだろうとブノワは考えている。「意味論」という用語でブノワが具体的にどのような手続きを考えているのか、この論考から推測することはむずかしいが、おそらく次のようなことが少なくとも前提されていると考えられる。「ひとが意味しうる種類のこと、あるいは一般的に言えば、ひとが考える種類のことと、成り立ちうる種類のこととのあいだにはいかなる存在論的ギャップもない」*15
 ブノワは基本的にはガブリエルのフレ―ゲの読解を高く評価し、「直接的に存在論的射程(物そのものに至るまでの射程)を備えた意義の理論というアイデアに私は賛同する」と言っている。しかしこの場合、ブノワはガブリエルの意義(Sinn)の理論は「感覚」に対してあまりに譲歩しすぎであると考えているようだ。「フレ―ゲの「意義」に関して忘れてはならないのは、まさに「意義」が真か偽でありうるという能力、より大ざっぱに言えば、正確か不正確かでありうるという能力である」(135)。しかしガブリエルの存在論的射程は、たんにあるがままの物そのものに対してだけでなく規範的価値そのものにまでおよぶ。おそらくこの点がブノワを不安にさせるのだろう。ブノワはフレ―ゲの意味論を存在論化するのであれば、意義に本来的な(この言葉をブノワが使っているわけではないが、要するにそういうことだ)規範的価値を忘れるべきではないと考えているらしい。
 わたしはブノワが意味論と存在論のあいだにいかなるギャップも認めないと言うとき、その「存在論的射程」をどのくらい自覚しているのか訝しむ。わたしの考えではブノワはガブリエルより一層(存在論的には)『論考』のウィトゲンシュタインに近いように見える(もっと言えば、上に引用したマクダウェル以上にガブリエルから遠い)。おそらく意義が規範的と見なすとき、もし世界が一枚岩であるという含意を回避しようとするなら、意義が真理への通路を可能にするという意味でのみ規範的であるということは不可能であるはずだ。その場合には、意義が規範的であるという事実性それ自体が説明されるべきものになることを逃れられない。これは伝統的にはよく知られた知性の事実性を説明するというプログラムである。ブノワはこの道を回避しようとしているのだろうか。しかしそれは、ガブリエルがそれを避けているとブノワが非難している当の道と異なるものではないのだが。
 存在論と意味論のあいだに存在論的ギャップを認めないという主張のなかで、実在と意義のあいだに最小限の機能的差異を担保することができるのは、ガブリエルが批判した世界の形而上学そのものである。しかし世界が一枚岩であるという含意を逃れることなく、「あるがままの存在」を(機能的にであれ)カテゴリー上規範から分離させる手立てを考える出すことは困難である。もしそれがある種(高階)の意義の領野においてのみ区別されるというのなら、ガブリエルの議論と相反するものと考えることはできないし、そうでない場合には、やはり最低次の領野としてあるがままの世界の形而上学に帰着するのほかないのではないか。ブノワはガブリエルの実在論が実在論としての制約に無自覚であると批判しているが、しかし思考と存在のあいだにいかなるギャップもないとすること自体の制約に無自覚なように見える(それが世界の形而上学である)。
 こうしたことはブノワに対してガブリエルの正しさを主張するといったことではない。ただブノワが充たすべきと考えている実在論の制約とは、ガブリエルが批判している(この場合には暗黙の)世界の形而上学と一致するのではないかということを示唆したいだけである。世界の形而上学を否定するなら、「あるがままの存在」を真か偽でありうるような表現が切りとるというような描像は、少なくとも根源的なものではありえないことになる。それは存在論のためのいわば最低次の論理階層を残すことによって、存在論を回避するふりをしながら世界の形而上学にコミットしてしまうのである。
 ところでこうした批判は、ブノワだけでなく実はフェラーリスの「新しい実在論」にもあて嵌まるのではないだろうか? フェラーリスは実在性一般についてガブリエルの「存在するとは、何らかの意義領野のなかにあるということである」というテーゼをパラフレーズするかたちで、「存在するとは、何らかの環境のなかで抵抗するということである」(186)と言っている。この定義はしかし、ガブリエルの存在と意義のあいだにいかなる存在論的ギャップも認めないという主張とはおよそ似たところがない。フェラーリスの定義はむしろフッサールをおもわせるものだ。フッサールにとって意味のなかに現実的には属さない何ものかが、対象の超越的側面を内在的に構成しているということは、現象学の第一の発見のようなものであった。抵抗の観念は従って、フッサールの対象のノエマ的側面という観念をおもわせるものである。フェラーリスはこの抵抗という観念を起点にして、社会的なものの実在論を立てようとする。

明らかに、存在の不透明さと対象とから出発すると気づかざるをえないのは、完全な全体性など存在しえないということ、むしろ世界とわたしたちとの関係は、存在論と認識論との不可解な平衡にほかならないということである。だからといって、対象の積極性がわたしたちには拒まれていることにはならない。じっさい、わたしたちの観念が明晰判明であるということが稀であるにもかかわらず、わたしたちがこの世界のうちに住み続けることを可能にしてくれているのは、ほかでもなく対象の積極性なのである。(187)

ここでフェラーリスはガブリエルとおなじ前提から異なる帰結を引き出しているように見える。対象領域の完全な全体性が存在しないということは、認識論に対して存在論の優位を立てる。この点は彼らがシェリングの読解からともに引き出しているポイントである。しかしそこから、いかなる意味で「対象の積極性」が主張されるのだろうか? この場合、対象なるものの意味、あるいは対象一般の存在論的身分とは何なのだろうか? 区別しなくてはならないようにおもわれるのは、つねにすでに成立しているものとしての認識論的枠組と、その枠組に対して相対的であるような存在の存在論的身分である。ガブリエルのとっては、この差異は複数の意義領野の重ね合わせとして考えられ、この重ね合わせが対象を指示することの条件とされる*16。この場合枠組に先立つ対象の対象性が、積極的な存在論的身分として前提される必要はない。またおなじことの帰結として、枠組は対象に対して存在論的に遊離しているものとは考えられない。ガブリエルのカテゴリーでは、対象(存在)から遊離した枠組なるものは一般的に言って不可能なのだ。
 これに対してフェラーリスは対象の積極性(環境に対する不透明さを帯びた抵抗)という基準に照らして、社会的対象についても、「現象ではなく物それ自体」(188)という身分が確保されるべきだと主張する。それが先に論じた「ドキュメンタリティ」が占めるはずの位置である。見たところフェラーリスは(ブノワとおなじように)存在論を回避することによって、最低次の存在領域の非意味(不透明さ、抵抗、対象性等々)に対して存在論的判断を持ち込んでしまっているように見える。とするとドキュメンタリティの実在性の主張は、ごく当然なものとしては受け入れ可能だとしても、「志向性はドキュメンタリティから派生する」というような主張に関しては、より踏み込んだ詳細な検討が必要になるだろう。わたしはここでは、「存在論の回避は実在論に関して存在論的帰結を持つのではないか」という一般的な疑問を示唆するにとどめることにしたい。しかし存在論を回避せず、実在論を帰結させる場合とはどのような場合だろうか? それは第一には、認識論の限界に真面目にとり組むものでなければならないだろう。第二には、認識論の限界それ自体がいかなる存在論的含意を持つかを検討したものでなければならないだろう。そして第三には、そうした存在論的含意を実在論的主張に定式化するとき、それが認識論の限界について違反するものでないかが問われていなければならないだろう。ガブリエルの実在論はさしあたりこうした条件を充たしているようにおもわれるが、それが正しいかどうかといったことはまた別の問題である。


ベンヤミンは文学作品の翻訳可能性を通常とは異なる考え方のもとに示している。ベンヤミンによると、ある作品の翻訳可能性は、その作品が本質上「翻訳を求めている[verlange]かどうか」*17という観点から測られなければならない。その観点は、事実上その作品が読者のうちにふさわしい翻訳者を見出すかどうかということとは別に、高次の要請として理解される必要のある関係概念を含んでいるとされる。「ある種の関係概念は、初めから人間だけに関係づけられるのではないとき、正しい意味を、あるいは最上の意味を手にすることになるのだ」と。だからある作品の翻訳可能性は、「人間には応えることのできない要請[forderang]を含んでいる」ということもありうるものとして考えられなければならない。ベンヤミンが翻訳に対してこうした高次の次元を要求するのは、翻訳可能性の概念を伝達可能性の概念から切り離しておくためとおもわれる。通常は翻訳不可能な要素と考えられている言語の伝達不可能な要素は、ベンヤミンにおいては翻訳可能性の概念と結びつくのである。

あらゆる言語、またその言語によって作られた作品には、伝達可能なもののほかに、伝達不可能なもの、つまり何かを象徴するもの[Symbolisierendes]、あるいはその場合の連関に応じて、象徴されるもの[Symbolisiertes]がつねに存在する。象徴するものというのは、さまざまな言語による有限な形成物〔作品〕の場合のみであって、それに対して象徴されるものは、さまざまな言語の生成過程そのものの場合に現れる。そして、さまざまな言語の生成過程のうちに自らの姿を描き出そう(darstellen)とするもの、いや作り出そう(herstellen)とするもの、それこそがあの純粋言語の核そのものなのである。*18

ベンヤミンにあっては諸言語のなかで翻訳を要請するものとは、作品のなかで意味の伝達に供されていない伝達不可能な要素としての〈象徴するもの〉であり、それを〈象徴されるもの〉に転換すること――そのとき作品は言語の生成過程に再度参与させられる――こそ翻訳作品の意義なのである。この〈象徴するもの〉から〈象徴されるもの〉への転換を通じて言語の高次の圏域が描き出されることになる。

究極の本質を意味から解放すること、象徴するものを象徴されるものそのものにすること、形成されたもののかたちで純粋言語を言語運動へと取り戻すこと、それが翻訳のもつ力強い、そして唯一の能力である。純粋言語は、もはや何も意図せず、何も表現しないが、表現を欠いた創造的な言葉となって、あらゆる言語において意図されたものそのものである。*19

従って翻訳とは、ベンヤミンにとっては諸言語を超えた言語一般の意図を描き出し、救出するこころみである。「異質な言語のうちに呪縛された純粋言語を、自分自身の翻訳の言語のなかで救済すること、作品のうちにとらわれた言語を作品の改作において解放すること、それが翻訳者の課題なのである」*20
 しかしこうしたことはわたしたちがかかわっている文脈にとってどんな意味があるのだろうか? ベンヤミンがもたらしてくれる教訓とは、わたしたちが伝統の断絶がもたらす翻訳不可能性と考えているものを、意図の伝達が困難になるポイントから切り離して考えるべきだということである。しかしその場合、ハイデガーの「存在論的差異」はどうなるのだろう? 存在論的差異は、わたしたちの文脈においては何よりもまず翻訳不可能な一点を指し示す概念のようにおもわれたのだった。伝統の分断に対して翻訳マニュアルを作成しようとするや否や、反動的な態度が道を塞ぐ。それは、さしあたり翻訳マニュアルが不在であるという事実に対して、その不在には理由があるとする強固な主張によって正当化されているようにおもわれた。とりわけハイデガーの差異の思考においては、マニュアルの不在そのものがまったく積極的な意味を持つもののように見えてこざるをえない、そうした一点が存在するのである
*21
 ここでベンヤミンの手助けをえて見方を変えるべきなのは、伝統の交流を阻む当のものに見えたものが、実は伝統の「あちら側」でも対立軸を構成しているのではないかということである。ハイデガーの存在論的差異が、翻訳を拒絶するとともに要請している〈象徴するもの〉であるとすれば、そのなかで〈象徴されるもの〉が、伝統の「あちら側」でまさに見出されるとしたらだろうか? すなわち科学的実在論ないし実在論一般の論争という姿で対立軸を構成しているもののなかにである。もしそうだとしたら、認識論の限界そのものが存在論的なものとして科学的実在論の議論領域のなかで問われなければならないことになる。しかしそれこそがガブリエルの「世界は存在しない」という挑発的な言明のなかで主張されていることだとしたらどうだろう? この点については、ここでは残念ながら示唆にとどめておくほかない。
 ここではこれまでの議論を簡潔に振り返ることによって、きたるべき結論に変えることとしたい。――ハイデガーが存在論的差異と呼ぶものが、分析哲学と大陸哲学の伝統の断絶にまさに理由を授けるものであるとするならば、前者は真理と存在の概念を、まったく無批判に用いているというわけではないが、まさにそれらの概念に批判的な機能を与えるために、ハイデガー的な意味での開示的(および隠蔽的)性格については問わないでおく。そのことを問わないということが、それらの概念を用いることの条件なのである。対して後者は真理と存在の概念についてハイデガー的含意をあからさまに引き受けている場合であれ、そうでない場合であれ、ハイデガーの遺産を何らかの意味で引き受けている。わたしがさしあたりマッピングというかたちで位置づけたいとおもったのは、ハイデガーの存在論的差異への問いを明示的には引き受けないかたちで、なおハイデガーの遺産に負債的にかかわっているこの場合であった。それは特有の実在領域にかかわっているのであり、かつ認識論的に包摂されることのない、そうした領域にかかわるものである。その領域をわたしはフッサールの「生活世界」という用語で不十分なかたちで示しておいた。この領域は、まさに実践的関心に支配され、なおかつ実践的関心においてしかかかわることのできないような、またそれとともに現象学によって実在論の可能性と不可能性が同時に与えられるような、そうした領域なのである。それは現象学によってはもちろん、ハイデガーの存在論によっても、起源的に哲学的であることを規定された関心によっては実在論としては定立されない。それを哲学の光に照らすなら、残るものは実在論ではなくむしろ弱められた(実践的関心を捨象された)意味での解釈学や歴史学のようなになるだろう。
 大陸哲学なるものが衰退の境にあるとしたら、それはおそらくは実践的関心が(理論的疑義によってではなく)たんに実践的関心として退くことによってなのである。フェラーリスはポストモダン思想の退潮の理由について、「何よりもまず政治こそが、ポストモダンな解放の希望を掘り崩した当のものだった」(178)と言っている。わたしとフェラーリスの「ポストモダン」なるものに対する評価は相違は、ただ次の(しかし決定的な)一点のみにある。つまり、そもそもポストモダンは反実在論として特徴づけることが可能なものではなかったということである。フェラーリスも認めているように実在論なるものはいつも反実在論とセットで考えられるべきものである。「新しい実在論は、繰り返し現れるひとつの機能にほかならない。つまり、それ以前にあった反実在論のヘゲモニーにたいするリアクションなのである」。もしそうであるとすれば、「新しい実在論」の主張が出てきたときには、それがどのような起源的汚染(負債)に対する応答なのかといったことが考えられなければならない。わたしの考えでは反実在論のヘゲモニーのようなものは前世紀後半の大陸哲学には存在しなかった。フェラーリスはポストモダンの認識論を「知は解放の手段ではなく権力の道具である」という言葉によって特徴づけようとしている。しかしそうした特徴づけは、そもそもポストモダンの言説が典型的な仕方でかかわっていた「実在領域」のようなものが存在するという事実を見失わせてしまう。そしてそうした実在領域にかかわる議論が、おそらく認識論的にではなく「政治的に」失墜したのだという(フェラーリスが認めている)事実をも理解しがたくさせる。
 わたしはむしろ次のような描像をとりたい。すなわち大陸の反実在論は大陸哲学におけるヘゲモニーであったというより、真正の対立軸を構成していたのである。こうした見方は、そこに真正の賭金があったと想定するならば不可避のものにおもわれる。そして大陸的実在論はカテコーン(パウロ書簡における偽メシアを抑止するものの形象)のようなものとしてこころみに考えてみたい。カテコーンが退いたのはたんに社会学的理由によるものだとしても、新しくきたものが偽の救済をもたらしているのでなはないかといったことは、たぶんカテコーンの正しさにかかわる問いである。そしてカテコーンの正しさの問いは、おそらくカテコーンが退いたあとでしか立てられない、そうした問いなのではないだろうか?

*1:『現代思想』2018年10月臨時増刊号。本誌からの引用は頁数のみを括弧内に表記する。

*2:ジャック・デリダ『エクリチュールと差異〈新訳〉』合田正人/谷口博史訳、法政大学出版局、2013年、53―54頁。

*3:マルティン・ハイデッガー『存在と時間(上)』細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、174頁。

*4:強調ハイデガー。同、168頁。

*5:ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年、114頁。

*6:「了解」を「理解」に変更した。『存在と時間(上)』36頁。

*7:同、36頁。

*8:同、37―38頁。

*9:マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』 川原栄峰訳、平凡社ライブラリー、1994年、139頁。

*10:「存在論的につきつめて考えれば、価値とは、あらかじめ事物的現実を基礎的な層として考える設定があってはじめて生ずる考えなのである」。『存在と時間(上)』、222頁。

*11:「「真理」は現存在と、そしてわれわれが存在理解となづけている現存在の存在的規定性と、どのような存在的・存在論的連関に立っているのか。存在がなぜ必然的に真理性と、そして真理性が存在と相伴うのか、ということの根拠が、存在理解にもとづいて挙示されるであろうか」。同、444―445頁。

*12:『哲学への寄与論考』では「〈存在〉(Syne)の真理」と言われている。

*13:デリダはそれを「隠喩の退隠」として思考するだろう。

*14:ガブリエルが用いる Sinn ないし sense という用語は、日本語の語感上「意味」と訳した方が利益が多いようにおもわれるが、ここでは文脈上の理由によって訳語を変更しない。

*15:ジョン・マクダウェル『心と世界』神崎繁(ほか)訳、勁草書房、2012年、61頁。

*16:「同一性についての言明が情報を与えるものであるとともに矛盾のないものであるということを理解したければ、次のように言うことができます。つまり、同一性についての言明は、同じものが二つの異なる仕方で与えられているということを主張しているのです」(50)。また、「端的な対象というものは存在しないのです」(52)。

*17:ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の課題」『ベンヤミン・アンソロジー』山口裕之訳、河出文庫、2011年、88頁。

*18:同、104―105頁。

*19:同、105頁。

*20:同、106頁。

*21:ここには構成的哲学が不可能であるとされるときとおなじ根拠があるだろう。とはいえ、同時にこうも言えるだろう。入念に翻訳マニュアルを作成するこころみは決して諦められたことはなかった、と。それが隠喩的である場合、その上厳密であることを期するのを諦めない場合こそ、デリダのケースというものではないだろうか。そして他のひと(たとえばフーコーやブルーメンベルク)は、そのマニュアルをいみじくも歴史の方に求めたのではなかったか。それは存在論的なものから存在的なものへの、また存在的なものから存在論的なものへの、翻訳マニュアル作成のこころみであり、あるいは言葉を換えると、超越論的なもの歴史的・偶然的生成へとわたしたちの注意を促すことである。